いつものように目覚め、いつものように身支度を済ませ、いつものように朝練に顔を出し、いつものように教室に向かった朝。
扉を潜ろうとした私を待ち構えていたのは、入ってすぐのドアの影に座り込み、真っ赤に腫らした目で見上げてくる紫原くんだった。
「っ………え?」
「っ…ゆあちん…」
「あ、え、お、おはよ…う…紫原くん?」
私の姿を目にした瞬間、うるりとその瞳に涙の膜が張る。
思わず何事かと教室内を振り向けば、その場に揃ったクラスメイトの大半が首を横に振ったり、両手で罰を作ったり、困りきったような視線を向けてきていた。
そろそろこの連帯感に慣れつつある自分がいてどうなのだろうと思うが、今はそんなことを気にしている場合でもなさそうだ。
どうやらこの紫原くんの行動の理由を知る人間はクラスメイトの中にはいないらしい。
とりあえず、瞬きをすれば今にも溢れ落ちてしまいそうな涙を放置することもできず、私はポケットから探りだしたハンカチを彼の頬に当てた。
そうすれば余計な琴線に触れてしまったのか、紫原くんは余計にくしゃりと表情を歪める。
「ゆあちっ…」
「う、うん?」
何か、泣くほど嫌なことでもあったのだろうか。
彼の泣き顔はこれまでに二度は見たことがあったけれど、どうも放っておけないような気持ちを抱くのは初めてかもしれない。
心配なんて、二年までの自分なら絶対にしていなかった。
(それだけ、大事になってるんだよね…)
彼の長い腕があれば何だってできるような近い距離にいても、今は殆ど恐怖を感じない。
身体が震えることも、声が掠れることもない。それが紫原くんが必死に堪えて慎重に接してくれているお蔭だと、理解できるから私は自分からも彼に近づく努力を止めなかった。
ひくり、喉を鳴らす彼を近くで見下ろすと、傷ついたような、悲しそうな瞳に見つめ返される。
「ゆあちん…っ」
「うん、どうしたの…?」
「っオレ、今日、朝、すごい嫌な夢、見たの」
「夢?」
途切れ途切れに紡がれる言葉に首を傾げながら溢れだした涙をハンカチに染み込ませていると、ふらふらと伸ばされた彼の手が宙をさ迷って、諦めたように落ちていく。
もしかして、掴まりたいのだろうか。苦しい時に何かに縋りたくなる気持ちを思い出して片手を差し出せば、何が悪かったのか更に紫原くんの涙腺が決壊した。
けれど再び上がってきた大きな手は迷わず私のそれを包み込んだから、間違いというわけでもないのだろうか。
若干慌てながら空いたもう片方の手で涙を拭ってあげれば、一度きゅっ、と唇を引き結んだ彼が、僅かに強張っていた肩の力を抜いたようだった。
「む、紫原くん…?」
「ゆあちんが」
「うん?」
ぼそり。
聞き取りにくくはないが、喉を張った声ではない。そんな声が一言一句聞き逃してはいけないと、澄ませた私の耳の中にゆっくりと入ってくる。
「男と、付き合っちゃって」
「……うん?」
「オレのことも、嫌いになっちゃって…」
「え…っと…」
「しぬかと、おもった」
口に出して思い出したのか、ぐずぐずと子供のように泣き止まない紫原くんに、私の方は数秒呆然と固まってしまった。
どんな嫌な夢を見たのかと思えば。
「ゆあちんに、今離れられたら、オレ死ぬかもしんない…」
ぶわ、と。
体裁も何も気にせず、思ったことをそのまま口に出しては涙を流す彼に、拙く分かりやすい嘘のない好意に、私の方が死ぬかもしれない、と思う。
何それ。何なの。
早鐘を打ち始めた心臓のせいで、徐々に熱を持ってしまう顔を、隠せる手は捕らわれたままだ。
「ゆあちんに、嫌われたら…オレの心臓、壊れる」
「こ…壊れないよ」
「壊れるし。死ぬし。絶対無理だし…っ」
「き、嫌いになんか、ならないから…!」
ああ、もう、何て恥ずかしい台詞を、恥ずかしげもなく口に出してくれるのだろうか。
どうにか振り切りたくて私の喉が絞り出した台詞も、負けず劣らずの代物ではあったけれど。
嫌いになんかならない。
今更、こんなに純粋な想いを知って、どうやって嫌えと言うのか。
疑い混じりに見上げてくる真っ赤に充血した目は、朝目覚めてからずっと、泣いては思い出し、また泣いてを繰り返してでもいたのだろうか。
そう思うと、どうしても堪らなくなる。
「もう、嫌えないよ…」
そんなに真っ直ぐ、明確な言葉も無いのに、ぶつけられてしまっては。
耐性のない私には、衝撃が強すぎて。
だって、死んでしまう、なんて。
大袈裟だけれど、当の本人は大真面目なのだ。
そんなの、どうしようもない。
「嫌いになんて、なれないよ」
「……ほんとに…?」
「本当に…だから、壊れないし、死なないよ」
探るような視線には、不安が付きまとっている。
とても、恥ずかしい。恥ずかしいけれど、目を逸らしたらきっと信じてもらえない。
その想いを踏みにじりたくはないから、私は真っ赤に染まっているであろう顔を隠すのも堪えて、彼の目を見つめ返した。
大丈夫。
今のあなたを、嫌いにはなれない。それは本当だから。
「……ん。ゆあちんだから、信じる」
ほんの数秒間が数時間に感じるほど真剣な目に見つめられて、緊張してしまった。
泣き顔を少しだけ緩んだ笑みに変えた彼にようやくほっと息を吐いてハンカチを仕舞い、宥めるようにその頭を撫でれば、今度は心底嬉しそうに相好を崩されて。
完全に、絆されている。
教室中から送られてくる生暖かい視線と紫原くんから溢れ出てくるオーラに挟まれて、この場から逃げ出してしまいたいと、少しだけ思ってしまった。
無理に決まっているけれど。
夢を見るあなたを知らなかったあの頃に、今更戻れるわけもない。
20120923.
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