美醜がそうであるように、成功と破滅は隣り合わせだ。
常に余裕を保つ潤い整った唇が弧を描くのを、苦味の残る心を抱えながら視界に入れる。
腐った果実や死骸を糧に生きる、世界一美しいとされる蝶の翅に、その瞳の色はよく似ていた。
色だけに留りもしない。清廉さには程遠いのに、見るもの全てを惹き付けてやまないその性質もか。そう、現実から離れた部分で思考する。
澄んだ色の瞳の奥にある淀みを気取らせることもなく、この女は目を瞠るような美貌を穏やかに弛ませている。何時も。今も。
「よくもここまで誑かしてくれたわ…!」
息巻く母親がアポもなしにマンションへ訪ねて来たのは、週末の夜のことだった。
進学と同時に一人暮らしを始めた息子が、天敵の娘の元へ入り浸っているという情報を何処からか突き止めてきたらしい。
別段隠そうとしていたわけでもない。この展開は想定できていたため、それほど驚きもしなかった。
何時かは何らかの形で通ったであろう道に慌てるほど柔な心臓を、オレは勿論のこと、元凶となる女が持ち合わせているはずもなく。
誑かすなんて人聞きの悪い。
口元に指を当てながら笑みを溢すなまえは、焦りを抱えるどころか愉悦に浸りきっていた。
その整った横顔を確かめ、頭痛に襲われるのはいつものことだ。全く悪びれない様子に、分かっていたことでもうんざりした。
これ以上の悪女、見たことねぇ。
恐らくこれからも、見る機会はないだろうが。
「しかもあんた、本家と繋がる先々に梃入れしてるっていうじゃない! 何を考えてるのよ!!」
「起業するにあたり全くの伝手なしでは少々やりにくかったもので…駆け出し時期に幾つかに援助をお願いしたところ、快く応諾していただけましたね。それが何か?」
「利益を本家に回してもいないくせになんて面の皮が厚い! こんなこと、夫が知ったら…いえ、他の人間だって黙っていないわ!」
「私の稼ぎは私のものですが。まぁ、それはそうでしょうねぇ」
「解っていて馬鹿な真似を…っ!」
「解っていますとも。だから勿論、その口を塞ぐ準備もしていますよ」
玄関先で迷惑も顧みず、ひたすら憤りも露にぶつかってくる親族に対し、なまえという女は一歩も引く様子を見せない。
機嫌よさげに歪む顔も、憎たらしいほど当然のように、その美貌を損なわせはしなかった。
「ねぇ、真くん?」
絶妙なタイミングで振り向き話を振ってきた女に、喉奥が微かにひりつく。今まで居ないもののように扱っていたくせに、本当に性質が悪い。
女同士の泥沼のやり取りに引きずり込まれて、嬉しい人間なんていないだろうに。解っていてやっているだろうと、睨み付けてみたところで効果はない。
さぁ、覚悟を示せ。
そう言わんばかりの微笑は、相も変わらず毒々しい美しさを保っていた。
この女が望む言葉を紡ぐまで、こちらを焦がしでもしそうな視線からも解放されないのだろう。
まるで、傀儡だ。
「ああ、そうだな。間違いない」
それでも、脅迫じみたあの瞬間の誘いに、乗っかったのは自分の意思で。今更選択を覆す真似をする気は更々なかった。
一々確認する必要もねぇのに、何処までも逃げ道を塞ぎ追い詰めたいのか。お前って女は。
ああ、そういう女だった。解っていてその手に堕ちたのも、オレの意思だと。一体どれだけ繰り返し刻み付ければ満足するんだろうな。
インプリンティングなんて、とっくの昔に済んでるってのに。
一度目蓋を下ろせば、泥沼に浸る自分の足が見えた気がした。
「オレは、なまえを選ぶ」
肉親より、なまえをとる。
口に出した瞬間、甘ったるい毒を一気に飲み下したようだった。
愕然と目を見開いた母親と、満足げに目を細めた女。二人の表情は対照的で、古い絵画にでも描かれてありそうな装いだった。
罪悪感は特にない。そんなものに胸を痛めるほど、元から純な作りはしていない。
恩義だの愛着だの、将来的にも役立たないものに縋る気持ちは欠片もなかった。
あったとしても、自ら破滅に向かう道を選びはしない。
「真、あなた自分が何を言ってるか解ってるの!? 目を覚ましなさい!!」
信じられないというより、信じたくないという顔をした母親は、掴みかかる勢いで両肩を揺さぶってきた。
その手を引き剥がしながら、深く息を吐く。
目を覚まさなければ、死骸にされた後で食い潰される。
知らずに寝惚けているのがどっちか、今気付き諦め、認めてしまえ。
口にするのも面倒な助言は、この一度きりだと決めていた。
「充分。なまえを敵に回す愚かさは見に染みてるんでな。逆に、あんたらこそ今擦り寄っとくべきだろ」
「っ…あなたはまだ子供なのよ! 親に養われる分際で勝手な真似をするなら、あの人も私も手段は選ばない…!」
「あら、勘当でもしてしまいますか?」
ああ、馬鹿野郎。
軽やかに口にされた言葉に振り向く必要もなく、その表情は窺い知れる。同時に微かに蟀谷が痛んだ。
悪意など微塵も滲ませず、にっこりと穏やかな表情で再び口を開いたなまえに、一瞬で口を噤んだ母親の化け物を見るような視線が突き刺さる。
「何……言って」
「残念ながら、真くんはあなた方が思うよりずぅっと賢い子なんですよ」
花宮の中に、私以外に敵うものはいなかったでしょう?
それがあなた方の誇りで、自慢だったんですものね。
歌うように口にする女の手が、蛇のように腕に絡み付いてくる。
掠れた声でまともな言葉にもならない何かを吐き出そうとするオレの母親に、容赦なくじわじわと刃を突き立てながら。
「大学と兼ね合わせて学費も生活費も、真くんは既にちゃんと自分で稼いでいますよ。私がきっちり教え込んでますもの、間違いはありません。誰かに縁を切られたところで、立派に生き道は知っている」
「な…に、を……まさか…あんた…」
全部、奪うつもり…?
蒼白な顔色から吐き出された震える声を気にも留めず、流れる黒髪を片手で払う。いかにも見た目は純度の高い笑みを、ゾッとするほど美しい微笑を、浮かべた女は囁くように口にした。
「捨てられるのは、どちらでしょうね?」
誇りも自慢も、奪ってあげる。
悪い予感に全身を強張らせる母親は、既に一度きりの選択の機会を棒に振ってしまった。故に、今後に救いはない。
矜持にしがみつき、喚くしか脳がないからこうなるのだ。たった一つきりであっても助言は入れたというのに、ほら見たことか。
「だから言ったじゃねぇか」
今の内に、擦り寄っておけと。
最大の親孝行は、気付かれもせずに放り捨てられた。
If I can't be with you, then I don't want to be with anyone.「ふふっ…最高よねぇあの顔。傑作、堪らないわ。ああ、楽しい」
「そりゃよかったな」
性格の悪さに辟易できる立場でもないが、一番近い身内を切り捨てたのだ。一応、少しばかりは苦いものを感じもする。
普段より僅かに高い声に溜息混じりに相槌を打てば、背後から回った腕が胴に巻き付いてきた。すぐに背中に柔らかな熱を感じて、リビングへと戻りかけていた足を止める。
「ええ、とっても。気分がいいわ。ご褒美に背中でも流してあげましょうか」
「馬鹿か」
「あら、可哀想な真くんにサービスしてあげようかと思ったのに」
伸びてきた片手の指に、頬を突かれる。鬱陶しい。
少し乱暴にその手首を掴んで身を捩れば、ぴたりとくっつけていた身体を離した女は首を傾げた。長い髪が服の上を滑るのが、やけに目につく。
「ねぇ、未練はない?」
「決まってたことだろ」
手首から、掌へ。滑らせ絡めた手の感触は、憎たらしいほどにしっくりと収まる。
最悪の女に惚れたのが運の尽きだ。
近々破滅を引き起こす女神でも、その手をとれば間違いはないということは、身に染みるほどに覚え込まされてきたこと。
「今更覚悟も何もあるかバァカ」
くだらねぇことさせやがって。
どうせ自分の目の前で一つの縁を切り捨てさせたのも、思惑からそう外れたことでもないはずだ。この女のことだから、わざわざ母親の耳に入るように噂立てていてもおかしくはない。
そこまで解っていてオレは、熱を孕んで見上げてくる蒼い瞳から逃れようと思いもしない。
泥沼に沈んでも、藻掻く気持ちは湧かなかった。
「真くん」
「ああ?」
「ありがとう」
虚を衝かれて固まりかけ、言葉を返す間もなく近付けられた顔に唇を塞がれる。
憎たらしく、恨めしい。長年切り裂かれ続け未だに塞がらない傷口から、どろりと溢れる熱は途方もなく苦かった。
「とっても、気分がいいわ」
うっとりと心地好さに身を委ねる声音に、ただ一つ注がれる愛着に、ある筈のなかった信頼を滲ませる眼差しに、何度だって突き落とされる。
これ以上堕ちる場所なんて、何処にもないにも関わらず。
ああ、嫌になる。
自然と弛んだ潤む唇に噛み付いて返す前に、香りだけは甘い空気を吸い込んだ。
「オレは最悪の気分だ」
最悪な女に滅ぼされるように生かされる幸福は、毒のようだ。
*
If I can’t be with you, then I don’t want to be with anyone.
=あなたと一緒にいられないなら、誰もいらない。20140514.