明確な好意を抱いていたかと問われれば、そういうわけでもない。
抱かれていたかと問われても、その命の残り火すら追えない今では、知るよしもない。
ただ、覚えていた。過ぎ行く年月の中で手離すことも選べたはずの記憶は、消えることなく魂にまで染み付いていた。

一度目に出逢った女は、疾うに忘れたはずの母の温もりを思い出させた。
そこに無償の愛情があったのかは判らない。そもそも愛されるような関わりや理由もなく、彼女が何を思い命を懸けてくれたのかも定かではない。
交わされなかった感情を、わざわざ確かめたいとも思わなかった。
ただ、その温もりだけは心地好かった。もう一度逢いたいと、漠然な願いを抱くほどには。

二度目に出逢った女は、共生という言葉を教えてくれた人間だった。
こちらが勝手に思うだけで、実際の彼女にそのような意識があったかと言えばこれも疑わしい。死に場所に選ばれただけだったとしてもおかしくはない。
結局のところ彼女が何を考えていたかは、さほど重要な事柄でもないのだ。自分以外の誰かと関わり、言葉を交わし、触れ合う生き方を植え付けて逝ったのは紛れもなくその女だった。ただそれだけの話なのだから。
彼女のことは間違いなく、友のように慈しんでいた。もう僅か共に過ごしたいと、痩せ細り動かなくなった手を握ったまま思ったものだ。

そうして迎えた三度目。
出逢った女は年端もいかない小さな命で、いつかに芽生えた望みのすべてを叶える、幸福の化身のような存在だった。






「なまえ」



縁側に散らばる黒髪の束を拾い上げて梳きながら、閉じられた目蓋に唇を落とす。
微睡みを引き摺る微かな呻き声が軽く開いた薄紅から発せられるのを、その目で確認した男は息を吐くように笑った。



「起きろ、なまえ」

「んー…なぁに?」

「客人だよ」



眠たげに持ち上がった目蓋の下から現れた二眼は、男の笑みを写すとゆっくりと、不思議そうに瞬く。
客人?、と床につけたままの頭を傾げる、少女とも女性とも言い表せる姿にまで成長した愛し子に向かって、男は徐に頷き返した。

その肩より下から手を差し入れ、身を起こしてやれば欠伸を噛み殺すなまえは撓垂れかかる。
子供じみた甘えの動作に呆れるでもなく口元を弛めて、白く滑らかな頬の感触を確かめるように指で撫でた。



「なまえへの客人だ」

「セイじゃなく、私?…私にお客なんて誰が来るの」



解きほどかれた真名は、ここという特別な時にしか紡がれない。
呼び慣れた愛称を口にしながら訝しげに寄せられる眉間に、目蓋へしたように唇を落とすだけで、なまえの表情は渋々という風に弛んでいく。



「それは見てのお楽しみだ」

「また何か企んでる?」

「随分だな…今回は何も差し向けてはいないよ」

「今回はって、自覚あるんじゃない」



不満げに尖らせられる薄紅の唇は、頬から滑った指につまみ上げられる。
初めに出逢った幼い頃より変わらない、心を写してころころとよく動く表情は、なまえの有する魅力の一つだった。

年を重ねようと、いとけなさは拭えない。
じっと見上げてくる物言いたげな二つの瞳に向けて、穏やかな笑みを崩さない彼女の伴侶は言い重ねた。



「社の前に、来ている」



お前の客だよ、と。









常人の眼には写らない、連なる朱い鳥居の上に腰掛けた狐は、身動ぎもせずに眼下の光景を眺めていた。



「ねぇ、さん」



空気が変わったことを、肌で感じたのだろう。
境内の境目に位置する鳥居を、潜って出ていこうとしていた壮年の女性が、最後に身体ごと振り向いた。瞬間、掠れた声を発した彼女の足は地面に縫い付けられる。
見開かれたその目は、鈴より手前の僅かな石段に腰掛けるなまえを写して大きく揺れた。



「姉さん…? なまえ姉さん、よね! ねえ!?」



他には一つも人影はなく、強い夕陽の沈みきる前、女の影だけが色濃く地面を染める。
必死の呼び掛けに、なまえは頷くことも首を横に振ることもしなかった。
ただ、じっと。瞬きも少なく、自分の名を呼ぶ一人の女を見つめていた。



「姉さん、どうしていなくなったの、私以外誰も思い出してくれなくて、私、頭がどうにかしてしまったのかと…っ」



彼女にとっても、答えは必要のない様子だった。
ふらふらと社に近づく女は、少しも変わらないなまえの顔色など気にする余裕もないのだろう。
数十年ぶりに行方不明だった家族と搗ち合うようなものだ。動揺するのも混乱するのも、無理はない。

その姿が当時の面影を色濃く残すほどに成長していなければ、尚の事。



「ごめんなさいっ…ごめんなさい、私は、酷いことをたくさん言って、だから…だから姉さんは、消えてしまったのなら、本当に…私、」



肩を大きく震わせて顔を覆う、その手に若々しい張りはない。流れる時間に逆らわずに生きた、人間の手をしていた。
段々と嗚咽の混じり始める女を口を閉じたまま見つめる、なまえの丸い瞳は風のない湖のように凪いだものだった。



「ごめんなさい、姉さん。ねぇ、いくらでも謝るから、お願い、ゆるして」

「……」

「もう、母さんも父さんもいない。姉さんを苛める人は誰もいないから、私、何でもするから」



帰ってきて。
堪えきれなくなった涙をほろほろと落とし始めた彼女の口が、そう紡いだ瞬間。二人の距離が縮み、伸ばされた手が近づく瞬間になまえは初めて表情を変えた。

それまで感情を滲ませなかった真顔が、ふっと弛む。その一瞬を見逃さない、色違いの双眸にも気付いていただろう。



「薊」

「! ねぇさ…」



甘さを残した声は柔らかく、静まりすぎた空気を揺らす。
刻一刻と近づく夜闇の所為で、なまえの微笑みは陰った。

お別れを言っていなかったね。

そう、優しく突き放す言葉は、女の耳にはどのように響いたのだろうか。



「さようなら」



それまでの静寂が嘘のように勢いよく吹き上げた風が人の目を曇らせる。
枯草や砂が巻き上がった後、女が咄嗟に瞑った目蓋を押し開ける頃には、既に境内から彼女以外の人影は消え去っていた。








Until now I have been looking for you.




「狐に化かされたような顔をしていたよ」

「狐は私じゃないでしょー」



からころと履き慣れた下駄で石畳を踏み鳴らすなまえは、長く続く鳥居を潜る内に隣に並んできた男を横目で睨み上げた。



「ねぇ、征十郎」

「うん?」

「まさかとは思うけど」



不機嫌も露に、白い袖先の手をがしりと捕まれた男は軽くその目を瞬かせる。
特別に紡がれる真名は、刺を孕む声でも耳に心地よく響いてしまうから不思議なものだ。

何事かと首を傾げる征十郎に、なまえはきっ、と鋭い視線を突き刺す。



「私を試したなんて言わないよね」

「試す?…まさか。そんな意味のないことはしない」



何を言っているのかと本心のままに否定すれば、愛らしい顔の上で厳しくつり上がっていた眉は、微かに角度を下げた。
それでも納得はしていないのか、やはり物言いたげになまえの唇は尖る。

ああ、これは拗ねている。
幼子のようにいつまでも甘えを捨て去らないなまえに、征十郎はそっと笑みを溢した。



「試す必要がない。なまえは必ずオレの元へ還ってくるだろう?」

「…それは…そうだけど」

「あの程度で揺らぐほどの覚悟なら、最初から彼女に会わせたりはしないさ。何処にも行かず誰とも会わないよう、閉じ込めておくくらい訳無いことだ」



実際に、なまえの気持ちが揺らぐようなら人一人消し去ることも厭わない。それくらいの残虐性を持ち合わせていないわけでもない。
そうならないからこそ、再会を願っていた女と引き合わせることを許したのだ。



「寧ろ…なまえが確かに自分のものだということを、思い知らせてやりたい気持ちもあった」

「…なーにそれ」

「思い知らせて、思い知って。優越感に浸りたい気分とでも言うのかな」



人間のみょうじなまえは、もういない。ここに存在するのは、人の道を外れてもたった一匹の狐を、男を、選んで寄り添う命だけだ。

人の道へは、二度と帰らない。



「気に入らないか?」



三度目の正直だ。母を、友を、忘れ去れなかった心が求めていたものを、自覚したのは。
淋しがり、とまだ幼かった愛し子が称したことも、強ち間違いでもなかったのかもしれない。

大切な存在が欲しかった。
誰でもいいわけでもなかった。



「迷いなく居場所を定めるなまえが見たかったんだ」



望んでくれてありがとう。
甘く囁き落とされた本音を、全て拾い終えたなまえは溜息を吐き出す。
苦い笑みを型どる顔は、もう子供とも言い切れないもので。仕方ないなぁ、と繋がれた手を一度だけ強く振られる。



「そういうことなら、許してあげる」



私はずっとここにいるから。
解っているなら、いいのよ。

胸を張っていたずらな笑みを振り撒く宝物を、腕の中に囲いこむ。
たった一匹の狐の望みは、たった一人の人間の少女が、永遠に叶え続けることと決まりきっていた。



 *

Until now I have been looking for you.
=今までずっと君を探し続けていたんだ。


20140520. 

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