焦りの窺える表情からぎこちなく紡がれる言葉を、内心で時間を確認しながら耳に入れる。
一年時のゼミで知り合った特に深い関係を築いた覚えのない男は、落ち着きなく髪を触りながら口を動かした。
「こんなこと、言われても困るかもしれないけど…」
困らせると思うなら口にしなければいいのに。
そう考える私は薄情なのだろうか。
好きなんだ、なんて、何の捻りも面白みもない台詞を受け取るのに、真剣な顔を保つのも正直億劫だった。
「みょうじさん、オレと付き合ってもらえないかな」
「気持ちは有り難いんだけど。私、婚約者がいるから」
断り文句は決まっている。
次の講義まで時間の余裕はあるものの、暇を持て余しているわけでもない。空いた時間で合同課題を進めようと予め立てておいた予定を利益のない呼び出しにより崩されて、面倒に思う気持ちを殺しきれなかった。
答えなんて、聞かずとも分かっていることだろうに。
ごめんなさいと頭を下げて引き返そうとすれば、腕を捕まれてそれを阻まれる。
さすがに眉間にしわが寄りそうになった。まぁ、そんなへまを踏むほど不器用な質でもないのだけれど。
「それは…噂だし、知ってるよ。でも幼馴染みだからとか昔からの約束ってだけなら、オレの方がみょうじさんを好きだと…」
「それはないわ」
縋るように向けられた馬鹿げた主張は、振り返って一言で切り捨てる。
何も知らない人間が簡単にそういう口を利くから、こちらの対応もぞんざいになるのだ。
馬鹿を言わないで。
部外者が知ったような口を叩いても、恥を晒すだけよ。
そんな刺々しい口調は、自分の外見には似合わないことを知っている。仕方なしに飲み込み、それはないと繰り返すに留めた。
「残念なことに私も、彼以上に愛せる人はいないから」
あなたも、誰も、眼中にない。
言葉にせずとも伝わっただろうか。強引に引き抜いた手首に、今度こそ縋ってくるものはなかった。
「ん…軽くは纏まったし、これでいいかな」
カーテンの向こう、窓の外から光は差し込まない。
集めた資料と個人の成果を、早速印刷して纏めてしまう。固まった筋肉を解しながら空の色を確認した私が受け渡したレジュメに、素早く目を走らせた男は数十秒後に頷いて顔を上げた。
「ああ、充分だろう。こっちももう一つ、調べものが終われば片付く」
開かれたノートパソコンを示して、馴染みの顔は幾分か和らいだ。
「そう。征ちゃんが言うなら完璧ね」
「お前も結構な完璧主義者だよ。少し眠そうだったな」
テーブルに置いた腕に頭を乗せれば、微かに笑う気配がする。
元々暇人ではないが、最近は特に課題や仕事が立て込んでいたのだ。最低限の睡眠は確保していても、疲れは溜まる。
「大方、仕事を溜めたくなくて無理をしたんだろう」
「無理ってほどでもないけど…溜めたくないじゃない。落ち着かないし」
後から焦るのも嫌いだ。時間の扱いが下手なわけではなくても、絶対に邪魔が入らないというわけでもない。
例えば今日もタイムロスがあったように…と昼間の一件を思い出して深い息を吐き出せば、散らかしたままだったテーブルの上を軽く整理していた手がこちらに伸ばされた。
「それ、駄目」
くしゃりと髪を崩す手先が、地肌を滑る。
悔しいくらい心地好くて眠気に逆らえなくなってしまう。
目蓋の重みに耐えている私の耳は、またくすりと小さく笑みを溢す音を拾った。
「少し休んでいくといい。寝過ごしても、華音さんには家にいると言ってあるんだろう?」
「お母さんはともかく…お父さんがまた煩くなるわ」
「それも問題ない。婚約者同士仲睦まじいのはいいことじゃないか」
ああ、また、憎たらしくなるほど甘やかそうとして。
軽く睨み上げた先にある顔は、いつからだろうか。私に向けられる時、特別に愛慕の情が滲み出るようになった。
今も見下ろしてくる瞳は温もりを含んで、触れてくる指にも絶妙な力加減がなされている。
嫌みなくらい、私だけにいい男は出来上がってしまっていた。
「…じゃあ、そうする」
「ああ」
そうしろ、と指差す先には整えられたベッドがある。
正直な気持ち、あまり進んで足を運びたくない場所だ。休むにしてもソファーとか、ベッドにしても客室に通していただきたい。
その思いが顔に出ていたのか、私よりも先に立ち上がった男により椅子から引き摺り立たされた。
「征ちゃん、私今すごく目が覚めたわ」
「いや、お前は疲れている」
「帰れないほどじゃな…っ!」
踏ん張ろうとしていたところに足払いを仕掛けられてバランスを崩す。
油断した。転がり落ちた先のシーツに咄嗟に手をついて反転しても、身体の両側を押さえるように沈められた腕の所為で立ち上がることは叶わなかった。
「ちょっと、眠れって言ったのはどの口」
「昼間に、呼び出されたらしいな」
「……また…どっから仕入れたのその情報」
「仕入れ先なんてどこでもいいだろう」
しれっと口にしながらも、見下ろしてくる瞳に先程の温もりはない。惜しいようなうんざりするような、微妙な気分にそのままシーツに沈みたくなった。
何も言わないから、知らずにいるものと思っていたのに…。
この男は全く、私に不都合な情報を悉く拾ってくるから嫌になる。
「他の男を誑かすな。どれだけ言い付ければ解るんだ…なまえ」
「私は…私みたいな女に誑かされる方も問題だと思うのよ」
上辺に騙される程度の付き合いしかないのに、財閥御曹司の婚約者に惚れ込んで手を出そうとする方が、イカれていない?
下手をすれば火傷では済まない。赤司家の実権を握りつつある男に喧嘩を売るような手に出るなんて、ほとほと愚かであるとしか言いようがない。
いくら外面に惹かれたとは言っても、手を出していい人間と悪い人間がいる。私なんて確実に後者だと、賢い頭を持っている人間ならば欲望の対象からは外すはずだ。
「つまり、馬鹿が多いということだろう」
「それは私の所為じゃないでしょう?」
「どうかな。愛想を振り撒き過ぎている可能性もある。周囲の人間なんてもっと適当に扱っていいんじゃないのか」
「そんなことしないって、見てるんだから知ってるでしょうに。大体私の質が赤司にも関わってくるのに、下手な態度とって悪目立ちできないわよ」
私は貴方の婚約者、なんでしょう?
僅かに険しくなった顔に片手を滑らせれば、不満げに目蓋が伏せられる。こんな時、現れる幼い面影に胸を突かれて厳しいことが言えなくなってしまう。
誰も彼も、困ったものだわ。
賢く生きているつもりでも、不都合はいくらでも生じてしまうのだから。
「解っている。ただの嫉妬だ」
少し強くぶつかってきた額に、今度こそ背中がシーツに沈められる。
嫌な具合に縮んだ心臓には気取られたくない。か細くなりかける呼吸を確保して、落ちてくる眼差しを受け止めた。
「出来ることなら、この部屋に閉じ込めておきたいくらいだ。誰にも見られも触られもしないように。外からしか開かないよう、鍵を掛けて」
一言一句に込められた慕情は、異常な執着にも受け取れる。
「それはまた……情熱的ね」
散らばった髪を梳いて頭を掻いた手が下って、引き上げるように背中に回る。
ぎしぎしと固くなっていく身体の芯を感じて身を捩ろうとすれば、無駄だと言うように全身でのし掛かられた。
完全に、指先まで震えが走る。
「何だ…珍しく優しいな」
「現実的じゃないから…っていうか、ちょっと、重いんだけど」
「そうだな。可能であっても出来ないよ」
お前をずっとは引き留められない、と口にしながら今現在敵わない体格差で押さえ込んでいる男に返す言葉が見つからない。
私こそ、跳ね返せない。どんどん首を絞められていくのに抵抗できない。
「なまえだけいればいい…とは、流石にもう言えない。それでも、なまえがいなければ駄目だ。駄目になる」
「…脅迫されてるみたいだわ」
「察しがいいな」
視界の中で、にぃ、と歪む口角に寒気が走った。
私の可愛い幼馴染みの面影は、謀をする男の表情には浮かばない。
強張って跳ねる心臓は、もう隠せる自信がなくなっていた。
「なまえを傍に置くために必要なら、脅しもする。お前の意思で留まり続けてもらえる保証がないんだ」
「もう少し…私の気持ちも信じてくれていいんじゃないの」
「信じるのと手を抜くのは別だろう?」
首を傾げられても、可愛いなんてとても思えない。
もがいても抜け出せない状況に、顔が引き攣るのを堪えきれなくなる。
「なまえが逃げようとしたとしても繋ぎ止められるだけの備えは、絶対に怠らない。大事にしたいものだから手放さない」
今や向けられる子供じみた執着の中には、愛も欲も湛えられていた。
心に余裕をなくしていく私の瞳を覗く双眼にあるのは、温もりではなく熟れた熱だ。
嫌になる。恐ろしい化け物の眠りを覚まさせてしまったような気分に駆られて、心許ない。
滅多に感じない羞恥心と居たたまれなさ、罪悪感を刺激されて頭がどうにかなりそうになる。
私の大事な子は、たった一人、私を掻き回して駄目にする。
突き放せるものなら、突き放してしまいたい。
けれど、それはもう、無駄なこと。
「一生、なまえが必要だ。幸せにしてやる為にも手放してやらないよ」
私の上で笑う赤司征十郎は、既に私を絆しきった、勝者だった。
I treasure you in my heart.なまえはこうして組み敷いた時が一番可愛い。
無邪気を装うような顔でとんでもない台詞を吐く男に、振り上げることもできない手が握り締めたシーツに皺を作った。
*
I treasure you in my heart.
=あなたは私の宝物。20140505.