長年の癖や性質というものは、中々抜けないものだ。未だ直る様子のない寝起きの悪さには、自分自身振り回されっぱなしでいる。
ベッドから起き上がっても微睡んだままだった意識は、顔を洗い口を濯ぐことで少しだけハッキリとしてくるけれど、それでも覚醒にはまだ遠い。

ふらふらと覚束ない足取りで洗面所から戻ってくれば、眠気と戦う私の額に微かな笑い声と柔らかなものが降ってきた。
Morning、と滑らかな発音で紡がれる挨拶とキスを黙って受け取ることは、それなりな時間をかけて慣らされてきたもの。眠さに勝てずにうつらうつらしながらも、なんとか頷いて返事をする。



「sweetie pie」

「…ん、おはよう」



ぼんやりとした意識の中でも、甘やかされていることは分かる。
髪を撫でてくる指に心地好さを覚え更に重くなる目蓋と戦いながら、一時止めていた足を踏み出そうとした時、あ…と声が漏れた。

その呼び方は、久し振りだ。



「ん?」

「ふあうぅ…何でもない」



どうかしたのかと覗き込んでくる顔は、見慣れはしても昔から変わらず綺麗なものだ。
欠伸を噛み殺しゆっくりと首を横に振って返せば、目の前に立っていた辰也くんは軽く気になる様子をしながらも、解放してくれた。



「ならいいけど…コーヒーでいいかい?」



さっき煎れたのがあるから、と示されるテーブルには一人分のカップが置かれている。
彼用のカップの中から芳ばしい香りを運んでくるコーヒーとすぐ傍に立つ恋人を交互に見つめれば、特に言葉も発していないのに、いいよと頷かれた。



「今日は確か一限からだろ。オレの分はまた煎れるから、なまえは目を冷まさないと」

「…ありがと」



お礼を言って、促されるまま定位置に着く。少し遠いカップを手元に引き摺ってきて口をつければ、深い苦味が味覚を刺激した。
ちょうどいい温度のコーヒーを舌で味わえば、意識がしっかりとしてくる。少しするとそんな私の真正面にあった椅子が引かれて、こちらもまた見慣れたカップをテーブルに下ろした辰也くんも席に着いた。



「目は覚めてきた?」



sweetie、と付け足される言葉通り甘ったるい呼び掛けには、数度頷いて返す。
頷きながら、飲み下すコーヒーの熱とは違うものが心臓を包み込む感覚を味わった。

甘い声も、優しく囁かれる言葉にも慣れたものではあるけれど。久々に聞く呼び方は特別胸にまで響いてくる。
呼び掛け一つに、浮き上がる。私にだけ囁かれるものだと知っているから、余計に。
伸ばされた手に再びくしゃくしゃと髪を乱されながら、いいなぁ、と声に出さずに呟いた。

これは、私に足りないものだ。
疎かにしてはいけないのに足りていなかったものを、彼は息をするように吐き出せる。
羨ましさと悔しさ、それから幸せに近い擽ったさを感じた。



「辰也くん」

「うん?」



眼差しや指先の動き一つにも、彼の気持ちは溢れてこちらまで伝わってくる。
疑いようのないものを見せ付けられながら、それなら私はどうだろうかと。目覚めたばかりの頭で考えて、改めて軽く落ち込んでみる。

昔から圧倒的に、私の方は態度や口振りに気持ちを乗せられずにきたような気が、今更していて。
自分ばかり、砂糖水に浸かっているような気分とでも言えばいいだろうか。
幸せと呼んで差し支えない状況ではあるけれど、何というか…何となく、そういうのは、狡い。



「そういう呼び掛けには、英語だったら、何て返せばいいの?」



同じように返すことができたら、彼の方にも私の感じているものを分け与えられるんじゃないか…なんて。
単純な思考だと自分でも思うけれど、別に悪いことでもない。

まどろっこしいのは抜きにして、いっそ素直に訊ねてみる。



「そういうって…」

「sweetieとか…そういうの」

「ああ、それ。返しか…そうだな……」



急な私からの質問に一瞬戸惑うように瞬いた右目は、それでも話を理解するとまたすぐに柔く細められる。



「呼び掛けじゃないけど、Fly me to the moon…とか、どうかな」



僅かな間を置いて、誰もが見惚れる造形を綻ばせて甘い笑みを浮かべる彼は、案外と自分自身を知らないところがあった。
それは私にも言えたことで、自分をよく分かっていないからこそ、その自分に振り回されてしまう。その上自分以外とも食い違うきっかけになってしまったりもするのだけれど。

小さく息を吐き出し、私は手に持っていたカップを少し遠い位置に下ろした。



「Fly me to the moon」



すかさず、後頭部を引き寄せてくる力に目蓋を下ろす。
僅かに前のめりになりながら一度押し付けられた唇は、二度目は食むように重なって離れた。



「Darling,kiss me」



唇が離れてもまだ近い。
ギリギリ焦点の合う瞳を覗きこんで、小さく溢した言葉にあれ、と彼の目はまたも丸くなった。



「何だ、知ってたのか」

「…知ってる人は知ってる曲だと思う」

「へぇ…じゃあ、解って言ってくれたんだな」



鼻の先がくっつく距離で、頭の後ろから滑ってきた手の、指先。親指の先で触れ合わせたばかりの唇をふにふにと押しなぞられる。
微妙な気恥ずかしさに襲われつつ、間違いでもなかったから、と呟いて返した。

私が求めたものから、遠く外した答えじゃない。
自分だけが聞ける特別な呼び掛けは、それ自体が愛を囁いているようなものだと。そんなことはずっと前から、それこそ最初に呼ばれた頃から知っている。
そしてその愛情に同じだけのものを返す手段なら、何も言葉だけに限る必要もないのだ。

つまりは、そう。伝わりきれば、手段は問わない。
例えそれが彼にとって都合のいい台詞だとしても、私が求めた答えにも近く、違いはない。

どこか意地悪な色がその瞳にちらついても、今更目を逸らすようなこともしなかった。



「それなら、日本語でも聞きたいな」

「辰也くんが言い出したから合わせたのに…」

「Sorry」

「謝る気ないでしょ」



蕩けてしまいそうな目をして、柔和に綻ぶ顔は、本当にずるい。
どう考えたって軽い口調の謝罪に気持ちはこもっていないのに、仕方ないなぁと許してしまう私の方が、もっと仕方がない生き物になってしまう。

心の隅っこで、わざとらしく困ってみたりして。



「辰也くん、キスして…ってことです」



少しばかりの憎さをこめて、唇に当てられていた親指の先を食んでみても、視界に入ってくる口角は機嫌よく持ち上がるばかり。

これで同じだけの気持ちが、彼の中にも届いてくれればいいのだけれど。
よくできました、と囁いたその口が再び柔らかく私の声を奪っていく最中、願いながら目を閉じた。







Let our love grow.




でも、やっぱりこれは少し、困るかもしれない。

心の隅っこから取り出して口にした台詞に、唇の後、頬や目蓋にキスを落としてきていた彼は動きを止めて首を傾げる。
その仕種も、わざとらしい。



「何が?」

「いや…やっぱり、朝に言うワードじゃないなって」

「そう? オレはすごく嬉しいけどな」

「辰也くんは…そうかもだけど」

「なまえにとっては違うのか…」



寂しげに眉を落とす表情に、ぐっと息が詰まる。
これは、解っているくせに言わせようとしている顔だ。そう、私だって解っている。
けれど、否定しなければきっと傷付けてしまうのも事実だ。一欠片ほどは本心も含まれた問い掛けであることは察せられるから、本当に、氷室辰也という人間は厄介この上ない。

意地が悪くて酷い人。
困ってしまう。困るのに、そんなところまで愛しく感じてしまう自分にも、振り回されて。



「だって、大学…行きたくなくなっちゃうから」



顔は熱いし、溜息は意図せず甘くなる。
こんな風にキスをされて平然としていられないくらいは、私だって悲しいかな、溺れきっていて。

なら行かなければと満足そうに笑う男の頭に、軽くチョップを入れてから冷め始めたコーヒーを飲み干した。



 *

Let our love grow.
=愛を育てようね。


20140429. 

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