はぁ、と。つい吐き出してしまった溜息に反応を返してくれたのは、どんな時でも私の変化にいち早く気づいてくれる彼ではなかった。
「悩み事?」
「っわ…氷室先輩…」
特にやることも見つからない昼休み、久しぶりに何か読んでみようかと訪れた図書室で、本棚に向き合うも中々気分が乗らない。
そんな時背後から掛けられた声に慌てて振り返ると、そこにはいつも通り柔らかな笑みを湛えた部活の先輩が立っていた。
「今日はアツシと一緒じゃないんだね」
「あ、はい…何か用事があるみたいで。先輩は何か本を借りに?」
「いや、人捜しで。でも此処にもいないみたいだから、もう一度教室に戻ろうかな」
教室、ということはクラスメイトでも探していたのだろうか。
残念、と肩を竦めて見せた氷室先輩は急ぎの用があるわけではないのか、すぐに立ち去ることはなくそれで?、と首を傾げてきた。
「アツシと喧嘩でもしたの?」
「え、いえ…喧嘩はしませんけど」
「けど?」
不思議そうに見下ろしてくる美丈夫に、ぐ、と一瞬言葉を飲み込む。
どうしよう。相談してもいいのかな…?
誰かを巻き込むほどの内容ではないけれど、でも、氷室先輩なら彼とも仲が良いし、何かを知っているかもしれない。
逡巡の末、私は思いきって話してみることにした。
何も分からず思考をマイナスに傾けるよりは、誰かの手を借りてでも何かしらの情報は掴んでいた方がいいと思ったからだ。
そうと決めて勢いをつけるために一度だけ頷くと、もう一度先輩を見上げ直す。
「紫原くん…最近、昼休みになると一緒にいてくれないんですよね」
「え? アツシが? 自主的にみょうじさんから離れるの?」
「はい…用があるから、って。疑うわけじゃないけど、今までそんなことなかったから、少し気になって…」
喧嘩をするようなことは普段からあまりないから、したなら絶対に覚えている。けれど、そんな覚えもない。
一方的に彼を怒らせてしまったのかとも考えてはみたけれど、他は特に態度が変わるわけでもないから余計にわけが解らなかった。
「それは…確かに、妙だな」
「…ですよね」
やっぱり、他の人が聞いてもおかしく感じるらしい。
あれだけ普段からくっついていれば当たり前だとは思うけれど、今はその肯定も小さな不安を煽って仕方がなかった。
(やっぱり、私が何かしたのかな…)
覚えはないけれど、無意識に何かやらかしていて、紫原くんが教えてくれないだけとか…。
つい悪い方向に向かってしまう思考を振り払いたくて首を振っていると、何かを思いついたようにあ、と先輩が声を上げた。
「! 氷室先輩、何かありました…っ?」
「いや…うん。みょうじさん」
「はい…」
「四つ葉のクローバーの花言葉、知ってる?」
「…は、い?」
何か理由を思い出してくれたのかと、期待したところで問い掛けられた内容に、がくん、と勢いが落ちた気がする。
何で、今ここで花言葉…?
意味が解らず眉を下げた私に気づいてか、問い掛けた本人である先輩は苦笑しながら続けた。
「クローバーの花言葉は“Be Mine”。四つ葉には一枚一枚意味があって、それぞれFame、Wealth、Faithful Lover、Glorious Healthっていう四つの要素でできてる。名声と富、満ち足りた愛に素晴らしい健康、だね」
「え、はい…?」
「それぞれに願いがかけられていて、四枚揃うとTrue Loveになる」
「真実の愛…ですか?」
「そう。アツシのことは気にする必要ないと思うよ。あいつがみょうじさん以外に興味を示すなんてこともあり得ないだろうから」
「え…っと…?」
今のは、何かの答えだったのだろうか。
全く関係のない話だと思っていたのだけれど、笑顔を浮かべる氷室先輩がそれ以上のことを語る様子はない。
「よく解りませんけど…じゃあ、あまり気にしないようにします」
「そうだね。その方がいい」
本当に、よく解らないけれど。
何かを知っている様子の氷室先輩が、大丈夫と言っているのだ。それなら無駄に心配することもない。
話し終わって帰って行く先輩にありがとうございましたと頭を下げて、もう一度顔を上げた私はよし、と頷いた。
(とりあえず、不快にさせたとかじゃないみたいだし)
それならその内に、彼の口から理由を聞けるかもしれない。
気にしすぎてはよくないともう一度思い直して、今は気分直しに目の前の本棚と向き合うことにした。
*
「なまえちんどこ行くの?」
「え?」
また今日も一人で昼休みを過ごすことになるのなら、先に借りた本を返しに行こう。
そう思って教室を出ようとしたところで、掛けられた声に顔を上げる。
教室の扉より5、6歩分離れた距離にいた大きな人影は一気に距離を詰めてきて、不思議そうに首を傾げながら見下ろしてきた。
「紫原くん…?」
「うん? なまえちんどっか行くの? ご飯は?」
「えっと…先に図書室に本を返しに行こうかと思ってたんだけど…紫原くん、用事は? もう済んだの?」
「あー…」
もしかして…と期待を込めて見上げれば、言葉にならない間延びした声が返ってくる。
何かを考えるように宙に視線を投げた紫原くんは、すぐにその目を私に戻して普段と変わらない笑みを浮かべた。
「じゃー、本返したらご飯食べよ」
「…ううん、本はまた明日でも返せるし、ご飯食べようか」
「いいの?」
「うん、いいの」
ここ最近、不安はなくてもやっぱり、一緒にいられなくて寂しかったから。
そんなことを言ってしまえば彼はきっと困って謝ってくるだろうから、口には出さずに甘えることにして。
学食へと歩き出した彼に並びながら、埋まった空間にほう、と息を吐き出した。
ああ、やっぱり落ち着く。
気にしないようにはしていたし、実際おかしな心配もしていなかったけれど、それでもやっぱり隣に彼がいたり、一緒に昼食を食べたりすると思い知る。
紫原くんが隣にいてくれるのが、私の日常。触れて言葉を交わさないと物足りないし、どこか気を張ってしまっていた。
「それで、結局用事って何だったの?」
久しぶりに楽しく昼食を取り終えれば、教室に帰る前に外のベンチに連れ出される。
いくら関係を知られていても、人目につく場所で二人でいるのが私は恥ずかしい。そんな我儘からこうして二人でいられる場所を探し歩くのも、よくある日常風景だった。
彼の言っていた用事が終わったのなら、もう訊ねても差し支えないだろうか。そう思って隣に並んで座った彼の顔を覗き見れば、口を閉じて無言になった紫原くんがじい、と見返してくる。
そんな状態の彼が色々と考えている最中であることは既に知っているので、気長に待とうかなぁと思いかけた時、不意に伸びてきた手に目元を覆われた。
「紫原くん?」
「目、閉じて」
「え? あ…うん」
急に、どうしたんだろう。
疑問に思うも、拒む理由はないので大人しく従って目蓋を下ろす。
すると覆い隠された感覚が消えて、すぐに首元を風が抜けていく。髪を持ち上げられたのだということは判ったけれど、何をされているのかはよく解らない。
言われた通りにしながらも疑問符を浮かべていると、頭の上で少しだけ吹き出すような気配がした。
「ん。いいよー、目開けて」
「うん…?」
結局何なのか分からずに目を開けて、少し乱れた髪を戻そうと指を絡ませたところで、ぴたりと私の動きが止まった。
俯いた視線の先、胸より少し上にクローバーを象ったペンダントトップと、ラインストーンが居座っていて。
何を考えるよりも先に勢いよく彼を見上げれば、少しだけ頬を紅潮させながらも、柔らかい眼差しが返された。
その瞬間に、悟る。
これが、理由か、と。
「本物探したんだけど、なかったんだよねー。四つ葉どころかクローバー自体見つかんねーし」
「あ…えっと、季節、確か春から夏だから…」
「らしいねー。赤ちんに無理って言われたから本物は諦めるしかなくって」
「え、あっ赤司くんにまで聞いたの…っ?」
「だってどうせなら本物がいーじゃん」
どうしてそこまで、なんて言葉は野暮というもの。
ここで漸く氷室先輩の言葉の意味を理解して、ぶわあ、と顔に熱が集まるのが判る。
ああ本当に、心配するだけ無駄だったんだ。
「室ちんに教えてもらったの、花言葉」
「…うん」
聞き覚えのある単語に、顔を上げることもできなくて頷く。
私も聞いたのだ。同じように、氷室先輩に。
『花言葉は“Be Mine”。四つ葉には一枚一枚意味があって…』
名声、富、愛、健康…四枚そろって、真実の愛になる。
そして“Be Mine”。その意味は。
「なんか色々あったのは忘れちゃったんだけど、四枚なら“真実の愛”ってのだけ頭に残ってたんだよね」
で、愛ならあげる相手は、一人しかいないから。
「なまえちんに、あげる。約束」
だからいつか、オレのものになってね。
驚いて、嬉しくて、でも恥ずかしくて堪らなくて、言葉が出てこない。
自然な動作で持ち上げられた左手の薬指に、柔らかく触れた唇に悲鳴を上げそうになって、思い留まった。
ああ、もう。
(死んじゃう…)
言葉もなく茹で上がった私を覗き込んで、答えを知った彼は至極嬉しそうに笑った。
薬指にくちづけをいつか、あなたのものにならせてね。
20130115.