子供という生き物は、それはもう単純に出来ていて。
好きだから一緒にいたい。一緒にいたいから守られるべきと信じる約束を、何度も重ねては忘れてを繰り返し、大人になっていく。
そんなものだと、私は思う。
騒がしい休み時間、突然それまでとは違い色めき立った廊下の気配に気付き、自分の席に着いたまま目を向ける。
少しそのまま待っていると主に女子の囂しさは増して、その声に包まれるようにして廊下を進む男子生徒の姿が見えた。
「人気者だねー、氷室辰也」
騒がしさを好まない友人の一人が、うんざりとした顔をしながら私の席に寄り掛かってくる。
その引きまくってますと言わんばかりの反応に、私も苦笑しか返せなかった。
確かに、ちょっと騒ぎ過ぎな面は否めない。
「氷室辰也も、よくあんなにこにこしてられるよねー。疲れないのか、もしくは隠れて女好きか」
「はは…どうだろうね」
「ま、関わんないことには分かんないか」
呆気なく興味を失う友人に、お裾分けと称したポッキーを差し出されてありがたく受け取る。
冬季限定の甘さを堪能しながら、関わりかぁ、と息を吐いた。
「関わり…持ちたくないんだね」
「別にどうでもいいわ。友達くらいにはなってもいいかもだけど、取り巻きいそうだし。寧ろ、なまえは関わりたいの?」
「私は…関わりたくない、かな」
隙のない、整いすぎた笑顔を振り撒く男子の姿が、教室の前を通り過ぎて見えなくなる。
口に出した言葉が一瞬心臓を締め上げた気もしたけれど、そんな感覚は些細なものだった。
だって、約束なんて、忘れるものだもの。
(もう子供じゃない)
何も考えず、好意だけで擦り寄ることを許されると思えるほど、幼くはなれない。
大人になんかなりたくなかったなぁ、なんて嘆いたところで、いつの年代に置いても為す術はなかった。
こうなって今更見つけられても、苦しむのは私だ。
「なまえー? おーい、生きてる?」
「辛うじて」
「え、何辛うじてって。どしたん?」
「どうということもないよ」
気にしないで、と笑い返した私に訝しげな視線を寄越した友人も、次の授業を担当する教師がやって来ると席に帰っていく。
この付かず離れずの温い関係性を愛しく思うから、どうしたって私は自分を磨き、媚を売る人間には為りきれないことを実感した。
だから、早く忘れてしまうべきだ。
『ぜったい、かえってくるよ』
『そうしたら、オレとなまえはずっといっしょにいるんだ』
優しくて可愛くて、大好きだった幼馴染み。そして信じていた、言葉。
深く根付き過ぎて一言一句逃すことなく覚えていることが、今では苦痛でしかない。
せめてもう二度と会えなければ、美しいだけの思い出にできたのに。
こうなれば見つかってしまわないこと、そして幼い約束を彼が忘れてくれていることだけを願って、逃げ回り続けることしか私にはできなかった。
私には彼に釣り合うだけの魅力も、周囲に納得させるだけの行動力も、何もない。
もし彼が約束を覚えていたとしても、効力なんて切れているだろう。それを思い知らされることも、痛い。
臆病な自分にほとほと呆れるけれど、仕方ないとも思った。
非の付け所のないその姿を見掛ければ見掛けるほど、自分のつまらなさが身に染みて苦しかった。
なのに、どうしてだろうか。
どうして、近付けるはずもない場所に手を伸ばすような、無謀なことを躊躇いなくやってしまうのだろうか。
どうして。
「どうして、声を掛けてくれなかったんだ」
何が起こっているのか、理解が追い付かなかった。
忘れかけていた面影より随分と性別を感じさせるようになった、真剣な顔付きに全身が凍り付く。
捕まれた右手首が痛い。教室中から集まる視線が痛い。何より、早鐘を打つ心臓が。
彼が私のクラスに乗り込んできたのは、突然だった。
「何で、逃げようとしたんだ」
「…あ、の」
「探したよ。会いたくて、同じ学校にいるって聞いて嬉しかったのに、近寄ってくる女子の中には見当たらないし、近付いて来ようともしないし。ねぇ、なまえ」
どうして、オレから逃げようとしたの。
畳み掛けられて、言葉を返す隙がない。
周囲も、どうしていいのか判らないといった表情でこちらを見てくる人間が多く、助けは望めそうになかった。
「オレは約束、守ったのに。なまえは忘れちゃった?」
「ひ、むろく…」
「名前でも呼んでくれないのか」
ぎり、と込められた力に、右手が悲鳴を上げる。
その痛みには、水面に引き上げられて破裂する内臓を彷彿とさせられた。
穏やかな瞳は何処にもない。
暗く傷付いた光を見て、私の胸がぎしぎしと軋んだ。
「どうして…」
どうして、そんなことを言うの。
名前でなんて呼べないよ。周りの視線も気にせずにいられない。
好きでいてもらえるなんて思えない。傍に居たってこんなに苦しい。
好きなだけで一緒にいれるような、子供じゃない。
住む世界が違うのに、引き上げられれば死んでしまうよ。
「オレはずっと覚えてたよ。ずっと、なまえに会いたかった。今だって」
「やめて」
「やめない。なまえは知らないんだ、形振り構っていられない気持ちも」
怖い。
見られることも、暴かれてしまうことも、何もかも。
それなのに彼の口を塞ぐこともできず、私はただその口からの死刑宣告を待つことしかできなかった。
深海魚、恋する。
「好きだった。ずっと、離れる前から今まで」
聞いてしまえば戻れない、甘さだけを含んだ囁きを落とした彼は、冷たい瞳で微笑んだ。
20130314.
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