今日は厄日か。
日直の当番の相手は部活を理由に仕事をサボるし、全て終わらせて職員室に向かえばちょうどいいからと担任から他クラスの授業で扱い片付け忘れたらしい資料をたんまりと押し付けられるし。
女子一人で運ぶには重すぎる紙の束は、漫画かと突っ込むレベルだ。怠くなってきた腕に眉を顰めながら、どんよりと鉛色をした窓の外に目をやって溜息を吐いた。
本当に、厄日かもしれない。
(こんな天気の日に…)
これが晴れた日であれば、まだよかった。
放課後の校舎で廊下を歩いている人影は少なく、雨のお陰で外で活動する運動部の声もしない。辛うじて吹奏楽部の楽器を練習する音は微かに耳に届いたけれど、それもこの場の近くで奏でられているものでもない。
どんどん積もっていく陰鬱な気分に、これから向かわなくてはいけない行き先に、軽く泣きたいような気持ちにもなる。
正直に言えば、資料運びを押し付けられたところまではまだ許容範囲だった。問題は、担任の指定した資料室にある。
立地の問題なのか何なのか、昼間でも薄暗い廊下の端にあるその教室は、この学校で長く伝わるホラースポットというやつで。そしてその付近では、昔この学校に通っていた女生徒の幽霊が目撃されるとの噂が生徒の間で囁かれていた。
私自身に霊感なんてものはないし、普段は薄気味悪い場所だなぁ…くらいにしか思っていない教室だったのだけれど、こんなただでさえいつもより暗い校舎の中を、一人でその場に向かわなくてはいけないというのは、何の罰ゲームなのだろうか。
重いし、怖いし、帰りたいし。
しとしとと響く雨音の中に今にも女の啜り泣く声でも混じりそうな気がして、無意識にごくりと喉を鳴らしそうになった時。曲がろうとした廊下の先から現れた影につい、悲鳴を上げてしまった。
「ひぃっ!」
「えっ?」
一瞬、幽霊でも出たのかと跳ねた身体の所為で、抱えていた資料が数束落ちる。
けれど、固まる首を動かして怖々見上げた先にいたのは幸いなことに生身の人間で、しかも普段からそれなりに関わりのあるクラスメイトだった。
「みょうじちゃん?」
「み、実渕、くん…っ」
よかった! 幽霊じゃなかった…!
つい縋るような目で見上げる私にぱちりと瞬きを返す彼は、相変わらず美人だと思う。
私から目を逸らし、地面にバラけた資料を見て何をしていたのか勘付いたらしい実渕くんは、それらを拾うと困ったような笑顔で見下ろしてきた。
「また押し付けられたの?」
「うっ…そう、ですね」
「困ったもんねぇ…みーんなみょうじちゃんに頼るんだから」
「頼るというか…パシるというか…ね…」
いやはや、情けない…。
今日は特に厄日のようだけれど、用事を押し付けられることは普段からよくある。
大抵断りきれずに押し切られてしまって、泣き目を見ることも多かった。
クラスが同じなんだから、その光景は実渕くんの目にも焼き付いているだろう。
呆れられたかな…と苦い気持ちを噛み締めていると、不意に怠かった腕が軽くなって、驚いて再び顔を上げればにこりと整った笑顔を向けられる。彼の手には、私より多く取った資料が抱えられていた。
「え、え? 実渕くん?」
「どうせ資料室でしょ? 付き合うわよ」
「えっ!? いや、でも実渕くん部活中じゃ」
「休憩時間。忘れ物を取りに行っただけだし、まだ時間はあるから気にしないの」
いい?、と、男にしては白い指で鼻を突かれて、思わず口ごもる。
そんな綺麗な笑顔で押されたら、悪いと思っても拒みきれない。
正直、一人で向かうのが心細かったのは本当だし、優しくされると甘えてしまいたくなるのは当然で。
「いいの…?」
それでも一応は念を押しておけば、軽く肩を竦めた実渕くんは笑顔を崩さなかった。
「いいのよ。この量を一人では大変でしょ? それに資料室なんて、みょうじちゃんには怖いんじゃない?」
「…何で分かるのかな」
「鉢合わせただけで悲鳴上げられればねぇ」
クスクスと、肩を揺らしながら歩き始めた背中を慌てて追いかける。資料室までの距離はそう遠くないから、そこまで面倒は掛けずに済むだろうか。
ジャージを羽織った背中は、高い背に比例して広い。仕種も口調も女子以上に丁寧なのに、体つきはしっかり男子なんだなぁ…なんて、当たり前のことを考えて少し恥ずかしくなった。
「そう言えば、みょうじちゃんは資料室の幽霊の話は知っている?」
「へっ?」
そろそろ例の薄暗い廊下に差し掛かる頃、狙ったように問い掛けてきた実渕くんをびっくりしながら見上げれば、視線は廊下の先を見つめながらその端麗な口許が歪む。
何故か急に気温が下がったような気がして、反射的に身震いした。
「何でも、生きていた頃に教師と恋に落ちて、その恋に破れて絶望して…当時その教師との逢瀬で訪れていた資料室の中で、首を…」
「みっみ、実渕くん!? 何で着く頃にそんな意地悪するかな!?」
「あら? ふふ、怖かった?」
「怖いよ!!」
なんとも愉快げな彼に、思いっきり叫んで返す。
優しい人だと思ったのに、とんだ裏切りだ。お陰で鍵を握る手を鍵穴に差し込む気が起きなくなった。
「酷い、私ホラー駄目なのに…」
「ごめんなさいね、あんまり怖がるから楽しくって」
「やっぱり酷い!」
とはいえ、ここで立ち止まるわけにもいかないのだ。
酷い人でも何でも、いないよりはいた方が心強い。
泣きそうになりながらも、鍵を開けて扉を開く。暗い資料室からは湿った紙と埃の臭いがした。
「でもね、思うのよ。それが事実であっても、馬鹿よねぇって」
「へ?…ひゃっ!?」
トン、と背中を押されたかと思うと、ガラリと扉が閉まる音が響く。
雨雲に囲まれた空から強い光は差さない。元から暗いであろう室内は更に暗く、密閉された空間に私は心臓を凍らせた。
バサバサと、抱えていた資料が床に散らばる音にさえ恐怖心を煽られる。
「み、実渕く…っひゃあ!?」
「ふふ、そんなに怖い?」
「なな、何、え? わ、私、なに…!?」
凍ったと思った心臓が、ばくばくと暴れだす。
何故か固いものに正面から縛り付けられて、それが何なのか理解した私の頭の中は更にパニックを起こした。
いくら暗いと言っても視界の確保くらいできる。そして私の目に映っているのは、間違いなく、さっきまで隣を歩いていた彼の襟元で。
意味が解らない。何が起きているのかも把握できない。
それなのに一人楽しげに、歌うように降ってきた声が耳朶に触れた。
死んでも諦めきれないなら、と。
「み、実渕く‥っ…」
「生きてる内に、どんな手を使っても捕まえるべきよね」
ねぇ、そうでしょう?
背中から這い上がり、髪に絡み付く指先。その感覚にも目眩を起こす私に、視界に入った口許がゆるりと弧を描くのが見えた。
「なまえ、」
捕まえた。
死霊・資料・思量
艶やかな笑みを湛えて囁く、彼の方が本当は何よりも怖いものなのかもしれない。
今にも胸を突き破りそうな心臓を抱えた、私の背中に回った腕はまるで枷のように、放れなかった。
20130226.
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