愛が無償であるなんて、誰が口にした戯れ言だろう。






上書きされていく携帯の履歴をぼんやりと見つめながら、片膝を抱える。
一人きりの自室はやけに静かで、時計の秒針の音と自分の呼吸音しか聞こえない。



「まだ…来ない」



ぽつりと、呟いた声は何の感情もこもっていないような、まさに今の自分に似合うぼんやりとしたものだった。

まだも何も、もう二度とその名前はディスプレイに並ぶことはない。
理解しているのに納得できないのは、どうしてなのか。それも、気付けないはずもない。

一ヶ月前に、彼女と別れた。
それなりに長続きしたし、押し付けがましくもない優しさを持った、それなりに可愛い子だった。
オレが束縛を嫌うことを知って、嫉妬心は圧し殺しながら笑っていた。そういういじらしいところは可愛いと思えて、オレの一挙一動に傷付きながらも離れないでいてくれるその子を、好きになった。

だから、その可愛さといじらしさを扱い間違えた。



(なまえ)



電話の履歴なんて、二ヶ月近く前で止まっている。
その後に続く女の名前は遊び相手のものばかりで、無意識に手に力がこもる。
顔と名前が一致しないくらいどうでもいい人間の名前は並ぶのに、なまえの名前は埋められて消されていく。込み上げる吐き気に息を詰めた。

別れ話は、別に珍しいものでも何でもなかったのに。
何であの時は、ああなってしまったんだろう。



「涼太くん、さ、先週の日曜…街にいた?」

「街?」



久しぶりに家まで訪ねてきた彼女が、部屋に入って早々問い掛けてきた事柄には覚えがあった。
けれど、震える指を握りこんで無理な笑顔を浮かべるなまえに、オレは首を傾げて返す。



「ん…女の子と歩いてるとこ、見掛けて。仕事じゃなかったんだなって」



ああ、そういえばそんな言い訳使ったかもしれない。
最近はなまえに会う時間より、そっちを優先していたし。何にしろ、それで心細そうにする彼女が見たいが故の行動だ。嫉妬で狂ってしまうくらい、その心の中を暴いてやりたかった。

いつだってオレが知らないふりをすれば、彼女も必死に知らないことにしてくれる。
それが面白くて、それだけ想われてるのが気持ちよくて、もっと泣かせてやりたくなるオレは最低なんだろう。でも、それでもなまえがオレを嫌わないことも知っていたから、歪んだ自信に取り付かれていた。



「見間違いじゃないっスか?」

「見間違い…」

「それとも、なまえはオレの言うこと信じてくんないの?」



もうこれ、何回目のやり取りだっけ。
なんて、オレが何度も引き起こしているのに。呆れたような演技も板につき始めたのに、知らないふりをして。



「そんな気になるなら、やっぱ別れる?」



これが何回目の別れ話かも、忘れてしまった。
オレが紡いだその瞬間、いつだってショックで潤んだ瞳を揺らして、数秒置いた彼女は首を横に振る。そしてごめんなさい、と涙声で呟く彼女を抱き締めれば終わる、一種の儀式みたいなものだった。

彼女の心が自分にあることを確かめるための、節目の儀式。
なのにその日の彼女は強張っていた肩から力を抜いて、首を縦に振った。

そうだね、なんて、涙声で笑いながら。
オレの知らない道筋を拵えた。



「もう、無理かな…ごめんね」



鬱陶しいよね。こんな彼女じゃ、嫌だよね。
ごめんね。もういいよ。私も、信じられないから。
信じたいけど、駄目になっちゃったの。だからね、涼太くん、今までありがとう。



「さよなら」



泣きながら笑って、次の瞬間荷物を抱えて部屋を出ていった、彼女の足音を聞きながら立ち竦んだ。

走れば間に合った。捕まえることなんて体格差を考えても簡単だった。
けれど、無理だと口にした、彼女の言葉が身体中を巡って目眩がして。意味が解らないまま、立ち尽くしたオレの儀式は強制的に打ち壊された。



「は…?」



だって、なまえはいつもオレから離れたがらなくて。オレが何をしても許して、知らないふりをして堪えて傷付くだけで。
なのにオレを絶対に嫌いにならない。そのはずじゃ、なかったのか。

裏切り続けたオレは、最後の最後で自分が裏切られたような気になって奥歯を噛み締めた。

でも、本当は知っていたんだ。



(分かっていた)



最低なことをしている自覚も、確かにあったはずなんだ。
だけど甘えたくなるくらい、優しい彼女が好きで。大好きで。
許されることに、慣れ過ぎた。その結果なんて考えればわかったことのはずなのに。

信じたくなんか、なかった。







忘れえぬ女




握り締めた携帯に、彼女の名前が並ぶことはもう二度とない。
大事なものが欠けてしまった悪夢から、覚ましてくれる相手はもういなかった。

いつかこの履歴からも消えた日には、オレは最後の嗚咽を上げる。

20130226. 

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