ふわりと、前髪を風が揺らす。
それと同時に影が差し、覆われた視界に息を飲んだ私の背後、空気に溶けて消えてしまいそうな声が囁いた。
「誰でしょう」
その人当ての遊びは、もう遠くにいってしまっていた記憶を鮮明に呼び起こす。
本棚に伸ばそうとしていた右手がふらりと宙を漂い、落ちた。
目蓋に感じるのは、少し冷え気味の人肌。指の感触。
そして漸く背後から捉えられた微かな人の気配に、私は一瞬でからからに乾いてしまった喉から、声を絞り出した。
「く…黒子、くん…?」
嘘。
だって、こんなところにいるはずがない。
そう思うのに、期待に膨れ上がる胸は抑えきれない。
するりと離れていった感触を追って、目蓋を持ち上げる。久しく耳にする、透き通るような落ち着いた声ははい、と返してきた。
「お久しぶりです、みょうじ先輩」
「く、黒子くん…?」
「はい」
「本物?」
「はい」
思いきって振り向いた先、そこに立っていた男子生徒は確かに、私の知る彼の面影を色濃く宿していた。
一年前とは違う、この誠凛高校の制服に身を包みながら。
「な…何で…」
ここにいるの。
だって彼は、中学時代に名を馳せていた選手達の一員だ。てっきり私は、バスケの強豪校に通っているものだとばかり思っていたのに。
戸惑いに震える声で訊ねる私は、まるで幽霊と遭遇したような反応だと自分でも思う。
そんな私に軽く首を傾げて見せた顔見知りの彼は、ほんの僅か困ったように口角を上げたように見えた。
「先輩を追って」
「だ、ダウト」
「来たということはないです」
「うん、だよね…私誰にもここに通ってるって言ってないし」
「はい。少し前に偶然見つけた時は、ボクも驚きました」
まさか、同じ高校にいるなんて。
そう呟く彼とは、長くも短くもない付き合いがある。
過去、私の通っていた中学はバスケットにおいて超強豪校と名高く、その中でもキセキの世代と呼ばれる天賦の才を持った人間が集まっていた。
私はそのマネージャーを務めていたこともあり彼らと接する機会も多く、学年の差はあれどそれなりに仲は良い方だった。
けれど、いくら仲が良いと言っても中学時代という思春期の、一時のこと。学年が違えば歩む時間も違う。
時間が違えば関わりも薄まり、進学先についても、彼らの中の誰にも話したりはしなかった。
もしかしたら赤司くん辺りは知っていたかもしれないが、知ったところで何の意味もない情報だ。わざわざばら蒔く理由もない。
だから私は、彼らと接する機会はもう、ないと思っていたのに。
「何か、あったの?」
中学時代という時期が、どれだけ移り変わりの激しく壊れやすい時間か。私はそれを知っていたから、自然と問い掛ける声は沈んだ。
まさか全員が同じ高校に進むわけはないし、そうなれば別れは必然ではある。けれど。
それにしたって、彼が誠凛にいる意味は決して小さくはないはずだ。他の五人のような才はなくとも、彼を欲しがる学校も存在したはずなのだから。
静まりきった図書室の片隅、私達を気にする人間はいない。
逃げ隠れできない閉鎖された空気に、彼はその感情を読み取るのが容易くない瞳を弛く、伏せた。
「みょうじ先輩がいなくなって…最後の全中で、少し」
「…黒子くん」
「でも、諦めきれませんでした」
目蓋を覆った指の感触を、思い出す。
時に熱く、時に大きく、時に細かった。私を目隠しした掌は、彼だけのものではなかった。
子供のような人当ての遊びに、代わる代わる興じるほどの近い距離。それらを彼は、彼らは、見失ったのか、と。
唐突に理解した私の手は、俯く彼の両頬に伸びていた。
「強いね」
全てを見ていてあげられなかった私には、知れることは多くない。
けれど、もし私の想像が正しく、彼の意思を間違いなく解釈できているなら。
誰が諦めても諦めきれない、諦めることを諦めた彼は、きっと誰よりも強く、尊い。
正しくない決別と、それを口にできる彼は誰より、傷を負うのだろうけれど。
私の目蓋を覆った冷えた指が、彼の頬を包む私のそれに重なる。
見開かれた瞳に灯された決意を、見つめて私は頬を緩めた。
「見ていて、くれますか」
それはきっと簡単じゃない、苦悩も多い道程。
それでも、過去を捨てるのではない。修復するために新しい道を選んだ彼を、それならば私だけは、見守っていよう。
それで少しでも、彼の中の隙間を埋められるのなら。
「うん。私が、見ているよ」
これも、一つの縁ならば。
春色の想い
再会は、苦味を伴っていても。
いつかあの頃のような笑顔が、彼を包んでくれますようにと。
20130218.
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