朝のロードワークを終え、そろそろ授業に出る準備をしなければならない頃。
部室に戻ろうとしている途中で何気なく顔を上げた先、見つけてしまったその姿に自分の思考が一瞬ストップするのが判った。



「……What!?」

「ふぉっ? あ、氷室くん、おはよおぉぉぅ」

「あ、うんおはよ…いや、みょうじさん!」

「ふぁい…っ」



小さく手を挙げて返事をする様はどこかぎこちなく、小動物のようで可愛い。
けれど、それよりも見てとれる異常事態に、思わず走り寄ってその肩をがしりと掴んでしまった。

真っ青な顔をしてがたがたと震える彼女は何故かずぶ濡れで、どう考えても学校に来る格好じゃない。
一体何をどうすればこうなるんだ。

本人よりも焦り気味に詰め寄れば、彼女は寒さに震えながらも穏やかな口調を崩したりはしなかった。



「うん、と…通学路で花壇に水やりしてるおばあさんがいたのだけど、ちょっと認知症が進んでいる人らしくて、何故かバケツでばしゃっと…私がやられてね…っ」

「何でそこで引き返さなかったんだ…!」

「遅刻するし…学校のが近いから、着いたらなんとかしようと思ってて」



そしたら氷室くんに捕まりました、と。
苦笑する彼女には色々と突っ込みたいところはあるが、今はとりあえずこのまま放っておくわけにはいかない。

とにかく濡れた制服だけは着替えさせなければとその手を引けば、特に抵抗なく素直に従ってくれる。
自分のこととなると途端に注意力をなくす彼女の性質は可愛らしいとは思うけれど、こんな時ばかりはもう少し必死になってもいいだろうと眉を顰めてしまう。
そんなオレに気付いたのか、なんだかごめんね、と困り声がかかることにも頭を抱えたくなった。

オレじゃなくて、君が焦るべきだろう。



「とりあえず、タオルと着替えはこれ、貸せるから…着替え終わったら呼んで」



急いで部室に向かえばロードワークに参加していた他の部員は既に教室に向かった後らしく、人気がないことに安堵する。
予備に置いていたスウェットとタオルを渡せば、こくんと頷きながら更に謝られた。
謝罪が欲しいわけではないのだが。

複雑な気分になりながら部室の外で扉に寄り掛かっていると、それから数分してこんこん、と扉が叩かれる感触を背中に感じて再び中に入る。
合わないだろうと思ってはいたけれど案の定ぶかぶかのスウェットを身につけた彼女は、濡れた髪を避けるように肩にタオルを乗せていた。

つい、そんな状況でもないのに胸が締め付けられる思いがして、意味もなく顔を覆い隠したくなる。
どうしてこんなに、可愛いと思ってしまうのだろうか。



「氷室くんのお陰で助かったよ」



暖をとるためか両腕を抱える形で擦る様も、何故か彼女がするとひどく身体の芯を溶かされるような気分にさせられる。
役に立てたならよかったよ、と返す自分の笑顔がちゃんと笑えているのか、自信がない。

可愛いのは可愛い。彼女のことを見つめている日常でも、よく感じる気持ちではある。
けれど、好意を向ける人間の濡れた髪や震える肩を見て、何も思わない男がいるだろうか。

今すぐ腕の中に引き寄せてしまいたくなる衝動をなんとか堪えて、沸き上がる煩悩に溜息を吐きかけた時、ふと、彼女が声を漏らした。



「そういえば」

「何だい?」

「歌舞伎って、あるでしょ。あれって中々役者の日常が濃かったりするんだけど、演じる上での工夫も面白くてね」

「…うん?」



突然何を話し出すのだろう。

たまに突拍子もない発想をする彼女は、寒さに震えながらもまた何か思い付いたらしい。
軽く疑問符を浮かべるオレに、ふわりと笑いかけてきた。



「女形の役者はね、悲劇を演じる時には女を感じさせるために手を冷やすの。そうしたら相手役も役に入り込んで、守ってあげたいとか暖めたいとか、そんな堪らない気持ちになるらしくって」

「……うん」

「日本独特の感性なのかなって気になって。氷室くん的にどう思う?」



今まさにそんな欲と戦うオレに、無垢な笑顔で訊ねてくる彼女に悪気はない。
ないだろうとは、思う。解っているのに。



(抱き締めても許されるだろうか)



完璧に煽られる自分の理性の弱さに苦いものを感じながら、今度こそ笑顔を保つことができなくなった。






蒼白な彼女




それでもなんとか逸らした顔を手で覆うまでに留めたオレを、誉めてほしい。



(…どうしたの、氷室くん?)
(…うん。いや、多分男なら皆同じように感じるんじゃないかな…)
(そっかー…じゃあ氷室くんも堪らないわけだね)
(……暖めていいなら、そうするかな)

20121116. 

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