私の目を引くに充分な要素を、その人は保持していた。それだけの話だったのだ。
それだけのお話、だった。はずなのに。
「ねぇ」
「は、い…」
「何で逃げんの」
「えええっとその、追われると逃げたくなるのが生物の習性というかなんというか…っ」
それだけの話が、どうしてこうなった。
階段の踊り場の角、今現在じりじりと追い詰められている私は、宛ら蛇に睨まれた蛙…というよりは、猫に狙われた鼠のような心境だった。
(どうしようどうしようどうしようどうし)
もう、頭の中はどうしようのエンドレスリピートだ。
半泣きになりながら見上げた先には、何を食べたらこんなに大きくなるのかと問い詰めたくなるほど高くに目を奪う、紫があって。
あ、綺麗。なんて一瞬でも思ってしまう自分を殴りたくなる。
違うでしょ。今そんなこと考える場合じゃない…!
「というか、あの、何で私追われたんですか、ね…」
そう、まずはそこだ。
どうして教室でまったりと昼休みを過ごすはずだった私が、人気の少ない階段の踊り場まで追い詰められているのか。
それは何故か、目が合った瞬間に席を立って近付いてきた彼から思わず逃げてしまったからで。
そうしたら更に追いかけられてしまったから、私も本気で逃げに走ってしまい。
流石に教室から出れば見逃してもらえると思っていたのに、そんな期待も裏切られ。
ぶっちゃけると、何をやってるのかよく解っていない状況だ。
その状況を見ていた人間がいたら、いや、確実にクラスメイトや通り過ぎてきたクラスの面々には見られているけれど、相当おかしなやり取りに違いない。
というか、やり取りにすらなっていないし。やり取れてない。だって全く意味が解らないし。
高校に入学して一ヶ月。その間一度も言葉を交わしたことのないクラスメイトに、追いかけられて逃げ惑うなんて。
考えてみればわけの解らない恐怖よりも呆れの方が強くなって、身体の震えが止まる。
私本当に何やってるんだろう。
「逃げられたら追っかけたくなったから」
「…そうですか」
まぁ、そんなことだろうとは思ったよ。
一ヶ月見てきた感じでは、彼はあまり深く物事を考えない質のようだったし。
何となく、という言葉が返ってきそうな予感はしていたから、驚かない。
私の方も、不快感を買ったということでもないのなら構わなかった。
こんな巨人を怒らせでもしたら、確実に一捻りで私は潰されてしまうだろうから。そうじゃないならよかった、というのが素直な気持ちであったのだけれど。
「ねぇ」
「はい?」
一先ず身の危険はなさそうなことにほっと息を吐いていると、ずい、と降りてきた頭がぶつかりそうになる。
(近っ!!)
思わずぴきん、と固まりそうになる身体を何とか動かして横にずれようとすると、いつの間にそこにあったのか、長い腕が壁にくっついていて抜けられない。
え、何これ。
今度こそ頭の中が真っ白になってしまう。
「みょうじさんってさー」
「は、はい…?」
「紫、好きだよね」
「うぇっ!? う、ん…好き、ですね…」
何故それを、なんて思うほどは私も馬鹿ではない。
確かに私には紫色が大好きで、ペンケースやノート等の文房具からバッグやアクセサリー、自室のカーテンやテーブルに至るまで紫色でコーディネートしてしまっているという事実があった。
周囲にもその辺りは笑い話にされているし、クラスメイトともなれば知らない人間の方が少ないことなので、紫原くんが知っていることにも疑問は感じない。
因みに、何でそこまで…と言われると、アレだ。好きなものはどこまでも集めてしまいたくなるのも人の性というか。
しかし、それがまさかこんな方向に発展するだなんて、誰が思うだろう。
何を言われるのかと怖々視線を上げれば、にやー、と持ち上がる唇が見えた。
「じゃー、オレのこと好きだよね」
「え、う…ん?……はいっ!?」
え、今なんて?
あまりに自然な流れ過ぎて頷きそうになった頭を、慌てて横に振る。
何か今、すごい聞き間違いしたような気が…
「オレ、好きだよね」
「何でそうなるの!?」
聞き間違いじゃない…だと…!?
二度言われれば流石に理解する。
けれど、理解してもその意味が解るわけではない。
最初に感じていた恐怖も忘れて勢い任せに何で、と詰め寄れば、えー、と首を傾げられる。
その仕種、全力で私に寄越してほしい。意味が解らないよこの人!
「だって紫好きでしょー?」
「いや、うん、紫は好きだよ? でもそこから紫原くんを好きってなるかというと…」
「ずーっと見てたのに?」
「!!」
バレてた…!!
今度こそぴきん、と凍り付くしかなかった。
ほぼ真上から落ちてくる視線はどこか子供っぽいのに、身体つきは大人にも勝る彼の、ちぐはぐな雰囲気は正に紫と称するに相応しい。
私の好きな、色だ。
「ねーってば。好きでしょ?」
「あ、え、ええっ…?」
ぐ、と近付いた顔に覗き込まれて、しどろもどろになりながら視線を向ける場所を探しても、どうしてもその色に目を奪われてしまう。今ばかりは自分の性質が憎い。
(いや、いやいやいや、好きって、色のことで、いや、名前もいいとは思いましたよ、うん。認める。でもそんな、名前と色だけで人を好きには…)
流石の私でもそりゃないよ。
そりゃ、ない……よね…?
でも、その色を纏う彼をつい目で追ってしまっていたことは事実。
その気だるげな態度だとか、同年代の男子とは思えない骨格や筋肉から感じる色気とか、なのにお菓子に目がなくて弛みきった性格とか…。
紫、お似合いですよね。
とか、言いたくなるくらいには確かに…。
「ねぇ、好きって言ってよ」
「っひぃ…」
何だその色気。何だその声…!
狙ったものなのかそうでもないのか、低く掠れた声に鼓膜を擽られたような、そんな感覚に泣きそうになる。
既に心臓は破裂しそうなくらいばくばくと暴走していて、変な汗が出そうだ。
確実に顔も赤くなっている気がする。とにかく熱くて堪らない。
「う、あ…」
「んー…言ってくんないの?」
仕方ないなぁ、とでも言うように不満げに息を吐いた目の前の彼に、諦めてくれたのかとほっと安堵しかけた私は本当に、全く以て甘かった。
「オレは好きだよ」
「…………は、え…?」
投下された今まで以上の爆弾に、間抜けな顔を晒しながら停止する。
そんな私を至近距離で眺める彼は、嬉しくないの?、と再び首を傾げた。
「オレに好かれて、嬉しいでしょ」
何で二回目断定したし。
そんな突っ込みを入れそうになりつつも、好き勝手振り回してくれる目の前のクラスメイトを嫌だと思えない辺り…私も、かなりおかしいのではないだろうか。
はいかイエスで答えて
みょうじさんがあんまり見てくるから、オレも見ちゃうようになったんじゃん。
ずっと見てたくなるって、好きってことでしょ。
そう言って私の答えを奪っていく、彼の言葉に背く方法は見つかりそうになかった。
私の愛して止まない、その色。紫を持ち尽くしている彼を否定できるほどの自信を、私は到底持ち合わせてはいなかったのだ。
20130119.
[ prev / next ]
[ back ]