自分が過敏な人間である自覚はあった。
幼い頃から類を見ないほど臆病で、世界に蔓延る様々な現象に一つ一つ怯えていた記憶がある。

物心がつき始める頃には、小さな物音がしただけでも何か見えない敵がいるように感じていた。ものが視界に写り込む時、形を見誤ってこの世のものではないような気がしたりも。
さすがに年を重ねるにつれて錯覚から生まれる恐怖には対処できるようにはなったけれど、何もかも気にせずにいられなくなるということはなく。

今尚臆病な私が何より怖く感じるのは、人の笑い声だった。









「いいな」

「え?」



ぽつり。呟いてしまった声に、カウンターの奥で文庫本に視線を落としていた彼の顔が上がる。
特に歪むことなく、それでも不思議そうだと判る程度にきょとんとした顔を向けてくる委員会仲間の彼に、私はぎこちない笑みを返すことしかできなかった。

何も知らないくせに、酷いよね。



「私ね…黒子くんが羨ましいんだ」



人気の少ない図書室で、カウンターの近くに私以外の影はない。
それをいいことに、彼にだけ弱音を溢してしまう自分が酷く最低な気もした。

それでもきっと、彼なら不快な感情なんて見せずに耳を傾けてくれる確信もあったのだ。



「羨ましい…ですか?」



どこが?、と続くのだろう。その台詞の先を読み取り、私は目蓋を伏せる。
彼がどう感じているのかも分からない性質を、羨ましいだなんて簡単に言ってはいけないのかもしれない。けれど、そう思う気持ちはどうしようもない。

私は、人の笑い声が怖い。
特に、背後から聞こえてくるものには、心臓が凍えるくらいに。



「…私、空気みたいなものになりたいの」



そこに在っても、感知されない。何の感情も抱かれないものに。
なれたらいいのにと、持ち上げる口角はどうしても歪なものになってしまう。

黙って私の話を聞いてくれる彼の手が、読み途中であろう文庫本をそっとカウンターに置いた。



「どうしてですか」



訊ねてくる声は穏やかで、見つめてくるその瞳の透明感も、知っている。
それを感じる度に、やっぱり私は彼を羨んでしまうのだ。



「誰にも笑われたくない、から」



人の笑い声を、まるで自分を嘲笑っているかのように感じてしまうようになったのは何故だろう。
偶然同じ場を共有したような他人の笑い声でさえ、自分に向けられているような気がして縮み上がる。

愚かで、ちっぽけで、だから指をさして笑われているのだと。
そうじゃないはずなのに、そんな風に心は感じて、その度に無意味にも傷付いて。
悲しくて、恥ずかしくて、惨めな気持ちになる。
だから私は誰の目にも留まらないことが、とても楽なことのように思えて。

彼を初めて認知して、関わるようになってすぐに羨ましいと思った。
誰の視界も欺ける、汚さない存在になりたかった私の、理想の姿がそこにあったから。

だけどそれは私の見解で、彼にだって彼なりの苦労があったのかもしれない。それは解るのに、こんなことを口に出すなんて。勝手だということも、解ってはいるのに。
重々承知で、それでも、疲弊した心はどうしても理想になりたくて、仕方がない。

黒子くんみたいに、なりたかった。なんて



「酷いよねぇ…」



黒子くんだって、その性質を好きかどうかも分からないのにね。
私は自分の性質が嫌いなのに、黒子くんもそうだったら、とても失礼なことを言ってしまった。

口に出してしまってから申し訳なくて、俯けばサイドの髪が下りて顔を隠してくれる。
これなら、霞む視界にも気づかれないだろう。そう思って、謝って退散しようと決めたその時に、文庫本を手離してから空きっぱなしだった彼の手が伸びてくるのがぼやけた目に写った。



「酷くはないですけど」



目の縁をなぞる親指を、圧迫されて溢れた滴が濡らす。
急な触れ合いに全身を竦ませる私に、カウンター越しに同じように立ち上がって微笑む彼の顔は、気付くか気付かないか、境目の優しさを含んでいた。



「みょうじさんらしいみょうじさんだから、いいんだと思います」



臆病で惨めで酷い私を笑わずに、囁かれた言葉はきっと、何より重く、甘かった。







君の涙終点、僕の指先駅




声を上げて笑わない彼だけが、私が怖いと感じない人。

20121227. 

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