自分の容姿や相手の心境を理解していながら煽り続ける行為というものが、どれだけ厄介か教えてやりたい。
彼女と同じ花宮の姓を持つ少年は、奥歯を噛み締めながら切実に思う。
「お腹が空いたわ」
つい先程までは近く行われる講義のために、真剣な顔をしてレジュメを作成していた年上の恋人は不意に手にしていたそれを放り出したかと思うと、そんな言葉を宣いながら彼の背中にべったりとのし掛かってきた。
完璧に無防備でいたところに突然密着されて、何も思わないほど思春期の事情は簡単ではない。
例に漏れず、性格はともかくとして健全な高校生にその行為はあまりにも酷だった。
「おまっ…離れろ!」
「お腹が空いたわ真くん」
「聞け! そういう話じゃねぇ…っおい、腕!」
「ねぇ、真くん」
するりと首の前に絡んできた細い腕と、背中に感じる柔らかな感触と体温。あからさまに甘えるような猫撫で声に耳朶を擽られて、ぐっ、と言葉に詰まりながらも理性を総動員させてギリギリであっても留まれる男なんて、恐らく自分くらいのものではないだろうか。
保たせた冷静な部分で、花宮真はそんなことを考える。
彼女の美貌に多少なりと態勢がついているからこそ耐えられるが、これがそこいらにいるような男なら、確実に擦り寄られた時点で欲望に食い尽くされるぞ、と。
そう簡単に食わせる玉でもなければ、甘えもしない人間だとは解ってはいるが。
解っているからこそ、余計に首を絞められるから堪ったものではない。
「ねぇ真くん、私すごぉくキッシュが食べたいわ」
そしてこちらの葛藤を知り尽くした上で、全く別の方向に意識を向けては翻弄してくる背後の彼女に反撃の旗を挙げることすらできず、今日も彼は苛立たしげに前髪を掻き上げた。
もう既に開き直りの気持ちが大きい。
どうせ、この女に勝てないことは分かりきっている。
「作りゃいいんだろーが…離せ」
「真くんたらつれないのね」
「言いながらちゃっかりレシピ出してくるお前に言われたくねぇよ」
漸く身体が離れたかと思うと、いつの間に準備していたのかヒラリと目の前に差し出される画像つきのレシピにうんざりと顔を顰める。
そんな彼に作り物のように美しい微笑みを浮かべる彼女は、やはり確信犯なのだ。
「つーか…食いたいなら最初から口で言え」
「それじゃあつまらないじゃない」
「危なっかしいんだよ行動が」
どうせ、彼女が望むことなら沿ってしまうことも分かりきっているのだから。
わざわざ煽ってくれるなと、深い溜息を吐き出しながら立ち上がる彼に微笑んでいたなまえは、悪戯に肩を竦めた。
「それとこれとは別のお話」
好きな子が傍にいたら、構い倒したくなるじゃない?
そう言いながら口角を上げる、その様は正に悪魔のようだと彼は瞳を細める。
「この、悪女」
「真くんには、最近は素直に接してるつもりよ?」
その素直さが甘過ぎて、処理が間に合わないことには気づいているのかいないのか。
どちらにしろ彼女を止められるのは本人だけで、その気になることは恐らくないのだろうことも理解してしまっている花宮真は、その手からレシピを掴み取ると無言で踵を返したのだった。
焦がし焦がれた砂糖水
望んで止まなかった甘い水は、啜れるようになれば酔うほどに甘く。
残り香にすらぐらつく気持ちを、彼女は知っていて弄ぶのだ。
(つーか、材料ねぇぞ。買いに行かなきゃ作れない)
(それじゃ、出掛けましょうか)
(…腹減ったって言ってたの誰だよ)
(それは口実)
(なまえてめぇ…)
(優しい恋人って素敵よね)
(いつか絶対泣かす)
(あら、それは楽しみね)
20121208.
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