※後味が悪めです。
―あと一時間で終わりですって言われたら、真くんはどうする?
―はぁ?
―あと一時間で自分が終わっちゃうとしたら
―ふはっ…あり得ねぇ事態を考えてどーすんだよ。馬鹿らしい
―んーそっかぁ、でもね、私はね、
(私は、何て答えたっけなぁ)
一時間と残さず、終わってしまった時間の中でぼんやりと考える。
最後に望むものは何だったろうか、がらんどうになってしまった胸の中で思い出そうとするけれど、それは無駄な足掻きだったようだ。
比較的幸せな思い出は、からからに乾いてしまった脳内からは絞り出すことはもう、できそうにない。
長いロープの先はもう、括りつけてしまってある。
人が恋に落ちるタイミングというものは、よく解らないものだと思う。
理由も思惑も関係なく、タイミングと行動一つで世界が変わってしまうことがある。
特別でも何でもないことが、特別になってしまう。この世に蔓延るどんなものよりもたった一つを重要視してしまうようになる。
私にとっての、花宮真のように。
幼い頃から、私はあまり恵まれた家庭環境に置かれていなかった。物心がついた頃に母は家を出ていって、夜に仕事から帰ってくる父はストレスをぶつけるように暴力を振るった。
変わった境遇にいる人間というものは、子供であっても独特のオーラを放つものなのだろう。元の弱い性格と家での扱いが災いして、小学校に入るとすぐに私は彼らのコミュニティーから弾かれてしまった。
俗に言ういじめられっ子に位置付けられ、小馬鹿にしたあだ名を付けられ、問題が起きれば濡れ衣を着せられ、馬鹿にされ罵られいたぶられ。
学校にいても家にいても、痛くて苦しくて消えたくて堪らなかった。
近所に住む人間の、腫れ物を扱うような、それでいて興味を隠せず窺い見てくるような視線も子供ながらに苦痛で仕方がなかった。
母恋しさに何度も泣いて、けれどその度に自分は切り捨てられてしまったのだということを実感して、絶望した。
誰にも愛されず求められない生活に、私の頭はきっと、おかしくなっていっていたのだ。
そんな中、生まれた世界に何一つ意味を見出だせずにいた中で、私の名を呼んでくれる人が現れた。
不名誉なあだ名でも、ものを扱うような適当な呼び名でもなく、私の名前を呼んでくれる人が。
初めてのクラス替えで巡りあった男の子は、たった一人、周囲に混じって私を苛めるようなことはしなかった。
名前を呼んで、人として扱ってくれた。その頃の私にはそれがとても不思議で、どうしてあなたはそうなの、と馬鹿正直に訊ねてみたこともある。
「よわいヤツであそんだってつまんねぇだろ」
既に歪んだ賢さを備えていた彼曰く、最初から弱いものを挙って叩いても何も面白くないということらしかった。
私にはまだよく解らなかったけれど、とりあえず彼だけは私の名前をちゃんと呼んで話を聞いてくれる、救世主のように思えた。
花宮真が私の全てになった瞬間だ。祝福すべき、初恋。
それは深い執着心を経て、絶対の崇拝にも成り変わっていった。
真くんがいれば、私は他には何もいらないよ。
そう度々口にする私に、彼は嫌そうに眉を顰めて何度も口先で馬鹿にしてきたけれど。それでも私から近寄れば突き放されはしなかったし、きちんと話を聞いて応えてくれた。
どこへ行くにも私は彼に付いて回って、鬱陶しいと言われたことも数回では済まなかった。けれど一度も逃げられたりすることはなかったし、結局最後は後ろをついて回ることを許してくれていた。
彼なりの優しさだと私は受け取った。
「真くんが何を思おうと、私は救われたの」
誰に対しても優しい人ではないことを知っている。
人を痛め付けて楽しむ面があることも知っている。
それでも私にはそんなものは関係なくて、なまえ、と気紛れに紡がれる自分の名に酔い痴れていた。
「私はあなたが、好きなだけ」
崇拝と呼ぶには対象が悪い。依存に近い感覚ではあっても。
私に、手を差し伸べた。進む道をくれた。その事実を満たす人間は、花宮真以外にはいなかったから。
そう。花宮真がみょうじなまえの全てだった。
救済で、絶対で、真実だったから。
彼の言葉が、心が、態度が、私の行く道を決めてしまうのだ。
「へらへらへらへら笑いながら付きまとって、ずっと騙してたわけか」
「真く、」
彼以外とまともに関わることが下手なままだった私は、いつまでもいじめの標的から抜け出せなかった。
時折、現場を見た彼に助けられたことはあっても、全てを防げたわけではない。
その日は特に、酷いことをされた。そしてその直後に、気付いた彼に全てを見られてしまった。
愕然とした表情を、忘れられない。それからすぐに烈火のごとき憤りを見せた彼を、私はこの目に焼き付けさせられた。
もしかしたら、私は何か間違ってしまったのかもしれない。
見たことがなかった彼の表情に、その上焦って口まで滑らせたりして。
こんなの何でもないよ、大丈夫だよ、初めてじゃないから。
そんなことを口走った気がする。瞬時に首もとを捕まえられて、怒りに染まった瞳に睨まれて焼かれてしまうかと思った。
「てめぇは誰に何されようと、平気で笑ってられんだな…!」
「ま…ことくん…?」
今更、何を言うの? 私、言ったじゃない。
真くんさえいれば他には何もいらないよ、って。
口を開けても疑問符しか飛び出さない私に、大きな舌打ちが落ちてきた。その意味が私には理解できない。
真くんがいたから、それ以外なんて。誰に何をされたって、探して近寄れば真くんは私を呼んでくれたから。
だから、何にも。辛いことも悲しいことも痛いことも気持ち悪いことも…我慢できたのに。
どうして怒られているのか、解らなかった。彼の気持ちは私には推し量れない。
八つ当たりや馬鹿にされるようなことはあっても、こんな憤りを向けられたことは今までになかったのに。
「オレに、二度と近寄んじゃねぇ」
首を傾げたままの私に、もういい、と吐き捨てた彼の言葉が、初めて心臓を仕留めた。
「消えろ」
初めて、掴んでいた首を突き飛ばされた。
初めて、話を聞いてもらえなかった。
初めて、彼は私の名を、きちんと呼ばなかった。
「……わかったよ、真くん」
貴方の瞳に写った最後の私は、綺麗に笑っていられただろうか。
綺麗だったらいいなと思う。最後に見た私が、彼の中で汚いものとして処理されなければいい。
花宮真は私の全てだ。吐き出された言葉の全ては指針となる。
深い執着を持って、絶対的に崇拝した私の初恋。彼がいなくなる世界なら、私ももう、いらないな。
「私はあなたが、好きなだけ」
首に繋ぐロープを確かめて、目蓋を下ろす。
あの時、背を向けられて見えなくなった彼の顔は、どんな表情を浮かべていたのだろうか。
踏み台を蹴飛ばす瞬間に、想像くらいはしてみたい。
壊れかけの兎
名前は、大事な持ち物だった。
自分を自分として現実で認識させてくれる、個体として存在を認めてもらう為の称号が、私にとってはとてもとても、大事なものだった。
誰からも呼ばれなくなってしまってから、自分が消えてなくなるような気がしていたから。
あなたに呼ばれて、見つけてもらえて、本当に、本当に嬉しかったのよ。
―残り一時間だとしたら、私はね、
―真くんに、私を、たくさん呼んでほしいな
20140407.
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