※未来設定。大学生時間軸。
甘いものが食べたいなぁ、と何気なく呟かれた声を拾ったのは、二人とも一日オフが重なって街中へ出ていた日のことだった。
ちょうど甘味が欲しくなる、十五時を過ぎた頃合い。時計を確認して喫茶店にでも入ろうかと提案すると、ほんの少し考えるように宙をさ迷った視線が私のもとへと再び落ちてくる。
「いーや。なまえちんまだ見たいお店ある?」
「んー…買うものは買ったし、今日見なきゃいけないものはもうないかな」
「じゃあ、ケーキか何か買って帰ろーよ。部屋で二人でまったりすんのもいいし」
ね、と覗き込んでくると同時に繋がれている手をぎゅっと握り直される。
ねだり慣れた仕種には未だに弱くて、考えるより先に簡単に頷いてしまう私の頬は弛んでいた。
「飲み物欲しいよね。ポット使うね?」
「うん、じゃあ皿とか出しとくねー」
通い慣れた部屋に入ってすぐに、彼の言う“まったり”を実行すべく動き出す。
水を張ったポットを火にかける私のすぐ近くで、キャビネットから二人分の小皿やフォークを取り出した敦くんは、ついでにマグカップも取って私に手渡してくれる。
常備してあるリーフとカップは流し台に並べて、お湯が沸くまで暫くの待機だ。
さてその間に何をしようかと振り向いたところで、いつの間にまた近付いて来ていたのか、真後ろにいた彼の胸に顔面からぶつかってしまった。
「うぶっ」
「アラー…ごめんなまえちん」
「や、私こそ…びっくりした、いたんだ」
静かだったから、近付いてたことに気付かなかった。
鼻を押さえながら顔を上げれば、ほんの少し申し訳なさげに眉を下げて謝られる。ごめんね、と頭を撫でてくる手付きは優しいもので、故意にぶつかったわけでもないんだからと笑ってしまった。
「どうしたの? 何かまだいるものあった?」
「やー、いるものじゃなくて…ちょっと待ちきれなかったってゆーか」
「うん?」
「コレね、なまえちんにあげたくてちょっと、買ってきたんだけど」
何が、と訊ねる前に目の前に差し出された、小洒落た小袋に目を丸くしてしまう。
買ってきた、ということは、私の気付かない内に用意していたのだろうか。誕生日や記念日でもないのにと戸惑う気持ちが顔に出てしまったのか、気にしないでいいよ、と目元を細める彼が言う。
「そんな高いもんでもないし、受け取って?」
「う、うん…ありがとう」
「どういたしましてー。開けてみてよ」
よく解らないけれど、恋人からの好意をわざわざ突き放すようなこともしたくない。
私も何か今度会う時にお返しすればいいかと納得して、受け取った掌に収まるほどの袋のリボンを解いた。
中から転がり出てきたのは直方体の小さな箱で、その形体に見覚えがありながらも一応、その蓋も開けてみる。
「グロス…?」
オレンジ色に傾いた瑞瑞しい色が、チューブの中で輝いている。
見覚えのある色合いに目を落としたまま呆然と呟けば、うん、と頷いた敦くんの腕が伸びてきて緩く背中を引き寄せられる。
「前になまえちんが試しにつけてもらってる写メ、送られてきてさー。似合ってたから、オレもちゃんと見たいなーって思って」
「あ…ありがとう」
「さっき聞いたよー」
「うん…でも…ふふっ」
「なーに? 何か笑うことあった?」
お礼なら、何度言ったって構わないくらいだ。
なんだか無性に、照れるような、嬉しいような気持ちに満たされる。
見覚えのあるパッケージのグロスは、それなりに名のあるメーカーのものだ。男性が一人でコーナーに向かうには、敷居が高かったんじゃないだろうか。
どんな顔をして買いにいったんだろう。少し見てみたい気もしたけれど、きっと彼は嫌がるだろう想像も容易くついてしまう。
(でも、似合ってたからって、買いにいってくれたんだなぁ)
解っていたことではあるけれど、本当に一生懸命に愛されているなぁと思う。
もう一度お礼を伝えようと、こちらからも抱き付こうとした時、私の反応に照れくさげに眉を寄せていた彼がそれを留めるように身を離した。
「もー…笑うのやめて、つけてよ」
「え?…っと、今?」
「そう、今。つけてるとこが見たくてあげようと思ったんだし」
お礼なんて本当はいらないからと、姿見の前へと腕を引かれる。
極めつけにお願い、と首を傾げられてしまうとやっぱりどうしても弱くて、少し勿体ない気持ちがしながらもキャップを捻るしか道はなかった。
彼の方もそろそろ、私がおねだりに弱いということを解っていてやっているのではないだろうか。
諦めの息を吐き出し、まだうっすらと残った朝からつけていた口紅の上に、少量のグロスを置いていく。
はみ出さないようにリップライン内で留めて唇を合わせると、余った分がほんの少し唇の裏側に滲み出てきた。
「甘い」
「え、甘いの?」
横に立って一連の動作を観察していた彼の顔が、きょとんとしたものになる。
品物の特性までは知らなかったのだとその顔を見上げれば知ることができて、また少し微笑ましい気持ちがした。
「そういう種類なの。ちょっとだけキャンディーみたいな甘い味がついてて…香りもなんだけどね」
鏡に写った唇は艶が出て、発色のいいオレンジは肌の色まで生き生きと見せる。
敦くんが似合うとまで言うだけあって、相性のいい品物だ。以前テスターをつけてもらった時には他に買うものがあって断念したものだったから、手に入って二倍は嬉しいプレゼントだった。
微かに鼻腔を擽るフルーツの香りに、いつまでも顔が弛んで仕方ない。
ふにゃりと弛みきった顔のまま、やっぱりもう一度お礼を言おうと彼へ視線を向けた瞬間、降りてきていた彼の顔と一瞬目が合う。
あれ、と思った時には唇が重なって、そしてまたすぐに離れていった。
「あ…え?」
「あ、ほんとに甘い」
塗ったばかりのグロスを掠め取って、戻っていった唇を舌で舐めとる姿に軽く固まってしまう。
美味しいものを食べた時のように輝いた目にあれあれ、と思った時には先程よりもしっかりと腰を引き寄せられていた。
「…あ…敦くん…?」
「これいいねー。見た目もすげー美味しそうだったけど、なまえちんほんとのお菓子みたい」
「おいし……いや、グロス、せっかくつけたんだからもうちょっと持たせたいんだけど…」
「えー…でも今のなまえちん、いつもに輪を掛けて甘くて美味しいしー」
ああ、これは全部舐め取られてしまうフラグでは。
まさか、グロス一つでスイッチが切り替わってしまうとは思わなかった。何となく恥ずかしいものになりつつある空気に、熱を持つ頬から意識をずらす。
そう、そうだ。彼は甘いお菓子を食べたかっていたのだ。確か。
すぐ傍にあるテーブルに置かれた箱の中には、ケーキやタルトが詰まっている。ドライアイスだってそろそろ持続時間を過ぎる頃のはずだ。
「ほら、甘いものならケーキがあるし、ね?」
「んーそれはまぁ……でも、ねぇ」
あっちにもっといいものがあるよ、と誘いをかけた指が、二回りは余裕で大きな手に軽く絡め取られてしまう。
それは間違いだと諭すように指の腹で甲を撫でられると、きゅうっと心臓が縮んでしまった。
「こっちの方が美味しいし」
駄目。勝てない。完敗だ。
ケーキよりこっちの方がいいと、食むように重ねられた唇に否定の文句は吸い込まれて消えた。
苺を甘く噛んで
(あ、敦く、んっ、ストップ!)
(えー、まだやだ)
(ちがっ、やだじゃなく、沸騰してるからポット!)
(え? ああー…させとけばいーし)
(さすがによくないよ…!)
20130406.
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