※未来時間軸。大学卒業後。




強張り続けていた心が、一気に緩んでしまったのかもしれない。
玄関から部屋の中へ彼女に続いて足を踏み入れた瞬間、ぐらりと視界が大きく揺れた。



「っ…」

「! 敦くんっ」



咄嗟に壁に凭れ掛かって転倒は防げた。異変に気付いて振り向いたなまえちんが声を鋭くするのに、首を振って大丈夫だと伝える。
こんな場所で、このタイミングで倒れるなんて洒落にならない。



「ちょっと寝てなかったから、ふらついただけ」

「あ……じゃあ、もう今日は」

「駄目」



出てくる言葉を先読みして、短く拒む。
もう後回しにするのはうんざりだ。後悔したって遅いなんてことに、これ以上はなりたくない。



「話さないと。じゃなきゃどうせ、ちゃんと休めないからさー」



心配そうに見上げてくるなまえちんの目は真っ赤に充血してしまっていて、やっぱりこのまま放置はできないと改めて思う。
きっとオレだけでなく、この子の中にも未だ不安はこびりついているはずだから。

安心させてあげないと。安心できない。
へらりと笑ってみせたオレを見つめ上げる表情は著しくはなかったけれど、それでもぎこちなく、彼女も頷いてくれた。









誤解やすれ違いなら数多く経験してきて慣れた気もしていたけれど、今回はこれまで引き起こした事柄の中でも相当酷かった。

数日の不安を埋めるように、着替える時間すら与えずに抱え込み座り込んで、一つ一つを解いてはお互いを納得させる。主になまえちんの中の間違った認識を解く作業だったけれど、それくらい苦にはならない。

傍に身を置いて触れさせてもらえるだけでも、オレの心は随分と落ち着きを取り戻す。
密着した部分から伝わる仄かな熱と柔らかな声に、蔓延っていた恐怖は押し退けてもらえた。



「つまり……前後不覚になるまで酔っ払った子を任されて、どうしようもなくなって部屋に運んだ…ってこと?」

「うん…。言い訳みたいだけど、運び込む以外では誓って指一本触れてないよ。連絡先すら知らないし」

「……そう」

「ん…でも、嫌だよね。普通、どんな理由でも自分以外が部屋に泊まったってなったらさー…疑うし、怖くなるよね」



本当にごめんね。考えが足りなかった。

力を抜ききってオレの胸に背中をくっ付けている、彼女の頭に、頬を寄せる。
傷付けてしまった自覚はあって、その胸の痛みを想像すると自分の心臓まで押し潰されるような気がする。

一番大切にしたい子を振り回して、泣かせた。言い訳なんて通用しない。最低最悪なことをしてしまった。
幻滅されても仕方がないことをしたのだと自覚しているから、身体をくっ付けていても心細さは拭えない。



「許してくれるなら、ほんとに…何でもするよ」

「…何もなかったんでしょう?」

「なかったけど、それとこれとは別だし。なまえちんをなくさずにすむなら、何だってするから」



僅かに震えた小さな肩を撫でて、切実に思う。手放さないためだけではなく、不安も悲しみも恐怖も、全部取り去ってやりたい。
植え付けたオレが持つには傲慢な願いかもしれないけれど、この子にはいつだって幸せで、笑っていてほしい。それは間違いなく、本心で。

なのに、そんなオレに返ってくるのは、湿って震えたか細い声だった。



「いらない…」

「…なまえちん」

「何も、いらないの…敦くんが、いてくれたらいい」



俯いてしまった顔を覗き込めない。震える手が、彼女の肩にあったオレの手を上からぎゅっと握り締めてくる。
それだけの動作に、胸を抉られる。
愛しいのに切なくて、どうしようもない。

傍にいられれば、何もいらない?
そんなの、こっちの台詞だよ。



「なまえちんさぁ…もっとオレのこと、責めていいって言ってんのに…」

「そんなのいらない」

「いらないわけねーし…償わせてよ。そうしないとオレ、これ以上お願い事できなくなる」



頑なな優しさを解したくてそう口にすれば、すん、と小さく息を吸ったなまえちんの頭が傾く。
くっ付けていた頬を離して今度こそ視線を合わせれば、潤んだ瞳が瞬いた。

ああ、また泣きそう。
弱々しい彼女だって嫌いじゃないけれど、もう暫くはこんな顔は見たくないなと思う。オレの所為でこんな風に傷付いたところなんて、見たいものじゃない。
戦慄いた唇がぼんやりとした声で、お願い事、と繰り返す。



「うん、お願い事。…オレ、眠れなかったって言ったじゃん。あれ、ずっとなまえちんから連絡入るの待ってたからなんだよね。反応ないのが怖くて、ちゃんと眠れなかったの」

「…連絡」

「だから…怒ってくれていいから、着信拒否とか…やめてほしくて」



自業自得ではあっても、あれは本気で堪えたから。
もしかしたら何かあったのかと心配にもなったし、この先もこのままでは困る。

お願い、と更に押して頼むオレをどこか呆然とした目付きで見つめていたなまえちんは、数秒後にその目を見開いた。



「……あ…」

「?…なに、なまえちん?」

「ちが…多分それ…ううん、絶対、拒否してたんじゃなくて…」

「え…?」



視線をうろうろとさ迷わせながら思いもよらないことを言い出す彼女に、オレまで目を瞠ってしまう。



「え? でも電話繋がんなかったよ?」

「…元の携帯、故障したから修理に出してて、暫くは代替になるから…そもそも私、それを伝えにあの日は仕事前に寄って…」

「……マジで?」

「う…ん」

「…じゃあ、着拒されたわけじゃない?」

「ご、ごめんなさい…っ私、混乱して…悩んでる内にすっかり忘れてて…っ」



申し訳なさげに頭を下げてくるなまえちんは必死で、オレの方はパンパンにまで膨れ上がった風船の空気を、一気に抜かれたかのような脱力感に襲われる。

つまりあれは意図的に着信拒否されていたわけではなかった、わけで。
このまま縁を切られるのかと思ったのも、一応は取り越し苦労だった、わけで。



「っ……うわあぁぁー」

「ご、ごめんなさい」

「違う…いや、もう……よかった……」



フラレたかと思った。捨てられたかと思った。もう声も聞きたくないという意思表示なのかと思って、眠れなかった。

胸に伸し掛かっていた一切の不安が消えて、安心感に目の奥がぐらぐらと揺れる。



「ほんとに…よかった……っ」



強く抱き締めなおした身体は身動ぎ一つせずに、肩に落とした頭をそっと撫でてくれる手付きも今までと同じく優しいままで。
腕の中のぬくもりを失わずに済むことに、今度こそ、目眩を堪えきれなくなるほど安堵した。








君と僕の未来日記




ふと目を開けてみた時、辺りは深夜の暗闇に包まれていた。
置かれた状況をすぐには理解できなくて、もがいた身体に掛かっていた毛布がずれる。
腕の中にぬくもりを感じてはっきりとしない頭を下げて視線を向ければ、カーペットに散らばる見慣れた色の長い髪があった。



「……ああ」



寝落ちたんだ。

すうすうと寝息を立てる、何よりも大切な存在を確かめて、漸く少し思考が働いた。
話し合って誤解を解いた後、シャワーを浴びに行くなまえちんを見送った。その後の記憶がないから、意識を手放したのはその時だろう。そこまで気力で耐えたようなものだったから、倒れ込んでも不思議じゃない。

ベッドから引きずり下ろされた毛布と布団を確かめて、もう一度しっかりと腕にしがみつくようにして眠っている彼女を見下ろす。
ベッドで寝ないと身体に負担がかかるだろうに。オレの傍にいようとしてくれる気持ちを行動で示されて、気遣う気持ちよりも嬉しさが勝った。

ちゃんと、ここにいる。
オレの大事な子だ。



「なまえちん」



起こさないように、そっと。前髪を掻き分けるように触れて、確かめる。

好きで、大好きで。死にたくなるほど離れたくないから、きっとこの先もオレは何があっても、この子を放してあげられない。



「あい、してる」



ごめんね。
こんなオレで、ごめんね。
たくさん悲しい思いをさせるのに、一生手に入れようとするような男で、本当に。

深い安堵と共に込み上げるものが、防波堤を越える。
流すわけにいかないと、堪え続けてとうとう溢れてしまった感情が、穏やかな寝息を立てているその頬に、ぽたりと伝い落ちた。

もう一度目が覚めたら、未だ空のままの薬指を埋める準備をしよう。
もうどこにも行かせたくないから、迷う時間も必要ない。

流させた涙の数倍は、幸せに笑わせてあげられるようにならないと。

目元を擦った手で濡れてしまった彼女の頬もなぞるように拭って、抱き締め返すように腕を回す。
もう、悪い夢は見ない。嗅ぎ慣れた香りに顔を埋めて、再び目蓋を下ろした。

20140404. 

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