最後に辿り着く恋愛は、今までの積み重ねから成り立つものなんだって。
掌を揺らす度に光を反射してキラキラと光る薬指の指輪を眺めながら頬を緩ませる私に、数日後伴侶となる予定の男は訝しげな顔で振り向いた。
まだ肌寒さを残す季節、桜も蕾のまま花開く日を待っていた。
天候は良好で、新たな門出に相応しい青空に千切れた雲が幾らか漂っていたのは昼間のこと。
高校最後の日を噛み締めるように、クラスメイトや部活仲間と別れを惜しみ、青空が朱に染まり始めるまで校門を潜り抜けようとしなかった。
高校三年の、二度目の春の話だ。
「いつまで居残る気だよ」
生徒玄関に踞り動かなくなっていたところに、ここ三年間で馴染みきった低音が滑り込んできた。
名残惜しいと騒いでいたクラスの友人達も既に消えて、今朝まで並んでいた上履きが残らず消えてしまった靴箱にくっつけた背中を、ゆっくりと伸ばす。
持ち上げた首を少しだけ捻れば、今まで外で後輩の相手でもしていたのだろうか。入口付近に立つ背の高い影が呆れたような表情で見下ろしてきていた。
「叶うなら、いつまででも」
「馬鹿言ってんな。帰んぞ」
叶うはずのない小さな我儘は、軽く一蹴される。
乱れないテンポがいつも通りなのがおかしくて、おかしくて、切なくなって笑ってしまった。
今まで何をしていたかは知らないけれど、最後に私を探してくれたのだろう。
態度には出ないし、口調も優しくはない。それでも気にかけてくれたことは察せられるから、普段なら喜ぶところで染み入る感情を胸の内に感じた。
態々手を引かれなくても、その背中を追いかけるために立ち上がることは決まっていた。
校門近くにはまだちらほらと残ってくれていたらしい後輩達の姿があって、それぞれ別れを惜しむ言葉を掛けてくれる。誇らしさと寂しさでじんじんと目の奥が痛んだけれど、彼らの姿をしっかりと目蓋の裏に焼き付けるために、浮かびそうになる涙を押し込め続けた。
その間も、何の約束もしていなかったはずの男は私の隣に立っていて。とうとう目の前に迫った校門を潜り抜ける瞬間すら、同じタイミングで足を踏み出した。
一緒に帰るなんて、今までにもそうそうなかったことなのに。
「宮地ー」
「ああ?」
蜂蜜のような色の髪は、夕陽を反射して赤みを増す。
頭にくるくらい綺麗な色と整った横顔を見上げれば、何気なしに視線を返される。
「私ねぇ」
ああ、また不機嫌そうな顔してるなぁ。
顰められた眉間を解してやりたかったけれど、生憎持ち帰る荷物に両手を塞がれて余裕がない。
困ったなぁ、困った。最後だから少しくらいいい目を見たかったのだけれど。見られなくて安堵する自分がいることにも気付いて、苦笑が漏れる。
「…何だよ」
話し掛けておいて何も切り出さない私に、向けられた目は益々鋭さを増した。
上背があって顔もいい人間がそんな表情をしては、向けられる人間は怯えてしまいかねないのに。つくづく愛想の足りない、不器用な男だ。
そんなところが、愛しかった。
一度、ううん、と首を振る。
「私ね、楽しかったよ」
秀徳に入学して、バスケ部のマネージャーになって、仕事は思っていたより気を配らなくちゃいけなくて、大変だったけれど。覚える内に部員とも、それなりに仲良くやれるようになって。
特にレギュラーを勝ち取る面子は練習に手を抜かない分、接する機会も多かった。大坪や木村は気のいい奴らで、宮地はたまに優しくなかったけれど。
会えて、よかった。間違いなく幸せな思い出だから、きっと今視界が潤みだすのは夕陽が眩しすぎる所為に違いない。
声が震えそうになるのは…そう、きっと、まだ少し肌寒い空気が喉を冷やすから。
「三年間、あっという間だったね」
いつまでも続く気がしていたけれど、そんなはずはない。人は一所に留まることはできない。
流れて、進んで、別れる。水みたいだなぁと、ぼんやり思う。
大事な、大事な時間。それでも、終わりは訪れるものなのだ。
しみったれた空気を漂わせそうになる私を、しかし隣歩く男は軽く鼻で笑った。
「お前に至っては、一年の頃から何も成長した感じねぇけど」
「失礼な。最後には監督に誉められるほどには成長しましたー!」
「最後だから甘く見てくれたんだろ」
「うっ…そりゃあ、ちょっとはお世辞もあったかもしれないけど、概ね本心だと」
「自信ないのかよ」
「努力が形に見えにくい仕事なのでね」
ぽんぽんと交わされる応酬に、ほんの少し固くなりかけていた身体が弛む。
軽くなった足を大きく踏み出してみた。
「嘘だ」
その一歩が、地面に縫い止められたような気がした。
振り向き仰いでみたその男も、いつの間にか足を止めていた。
別れ道の、少し手前だった。
「お前はお前なりに頑張ってたし、オレらは…助けられてた。ずっと支えられてた」
「な…に、改まって。変なものでも食べた?」
「うっせ。黙ってろ」
「だって」
だって、宮地らしくない。
そんな真っ直ぐ、素直に感謝してるみたいな台詞、吐き出されるなんて思っていなかった。
狼狽えて、動けなくなる。軽い会話で終われるはずだったのだ。この日は。
なのに、突き付けられる声はいつにも増して真剣な響きを纏っていて、笑い飛ばせない。
「言ったって仕方ないことだけど、お前には言っとくわ」
深く、吐き出された溜息の後。
勝ちたかった、と。宮地は言った。
「勝ったとこ見せて、泣かしてやりたかった」
瞬時に蘇る光景に、震えが走る。
誇らしさと同時に込み上げた悔しさ、喚声の中で下げられた揃って下げられた頭。
胸を抉られるほど、綺麗な光景。
「酷いね」
あの時よりぐしゃぐしゃに歪んだ顔が見たいなんて、酷い男だ。
息を整えて漸く吐き出した悪態に、うるせぇ、と素っ気ない声が返される。
ああ、こいつも寂しがってくれたのか。
言葉がなくても滲み出す雰囲気から分かってしまって、ぼろぼろと、剥がれ落ちる何かを自分の中に感じた。
けれど、目の前にあるのは、別れ道だ。
「ねぇ、宮地」
また、離れても連絡を取って会えるかな。
そんな言葉を切り出せるほど、女として近くにいたわけじゃない。
親しさでいけばそれなりの位置にいたはずだけれど、あくまでも部活仲間としての括りの仲で、口実もなしにプライベートを共に過ごすような仲では決してなかった。
同学年で部活仲間で友人という関係性は、彼らが何より心血を注いでいるものを傍で見つめられるからこそ、重い枷になった。
真剣な彼らを前にして不純な気持ちを押し付けるなんて、できるわけがない。甘い関係になんて行き着けるわけがなかった。
怖かったから、行き着きたくなかったのかもしれない。
「ありがとうね」
ありがとう、バイバイ。元気で、お互い頑張ろうね。
笑顔を浮かべたのは、正しい判断だったと思う。
私は、言えなかった。何も伝えられなかった。焦がれるような恋をしていた。自覚もあったけれど、離別する日が訪れるまで好意の欠片も口に出せなかった。
綺麗すぎる思い出の中、潤んだ視界を夕陽に邪魔されて、男の表情を正確に記憶することはできなかった。
その朱が眩しくて
それでも、いい恋をしたと思う。
あの日々を思い返して、流石にちっとも後悔していないとは言えないけれど。それでも、抱えるだけだった恋を、悪いものだったとは少しも思わない。
最後に辿り着く恋愛は、今までの積み重ねから成り立つものなんだって。
まだ何も置かれていないベランダで、輝く宝石に夕陽を反射させて遊ぶ私に訝しげな顔をして振り向いた男は顔に似合いの言葉を吐いた。
「んだそりゃ」
「んー…叶わない恋も無駄じゃなかったってことかなぁ」
あの日、もし想いを告げていても、ここまで辿り着けはしなかっただろう。
恋愛に失敗は付き物だ。出逢っては別れてを繰り返し、塩梅を探っていく。辛苦を舐めてこそ学べるもので、最後に一番いい形で大切にできる人を得られればベストだ。
粗方の荷物は整理したことだし、そろそろ夕食の準備をしなければ。
そう思っていると、窓を境にするリビングから長い足が踏み出される。
夕陽に照らされる髪は赤みがかって、相変わらずその顔は頭にくるくらい整ったものだ。
「何はしゃいでんのお前」
「別にー。宮地こそいつもより大分そわそわしてるからね」
「うっせ」
否定はしないのか。顰められた眉間をにやにやと見上げていると、手摺に寄り掛かった男にそれより、と睨まれる。
「宮地呼びすんのやめろっつってんだろ。お前もすぐ宮地なまえになんのにいつまでそれなんだよ」
「……いやー…」
「何がいや、だ。シメんぞいい加減」
私が突きたかったのに、突かれてしまうと少し痛い。
何度も指摘されてきたことでもあるので、余計に。
然り気無く距離をとろうとすれば、がっちりと腕を押さえられてしまった。そろりと見上げた場所にある顔は、無理矢理貼り付けたと言わんばかりの笑顔がある。
怒っている。これは、いい加減と口にするだけあって本当に怒っている。
けれど、だ。恐ろしさもだけれど、渋いものを感じる私の気持ちも解ってほしい。
だって、何年間宮地呼びで通してきたと思ってるの。
「何かさー…面映ゆいのですよ。解ってよ…しみじみしちゃうんだよ…」
「勝手に照れていーから慣れろ」
「酷いね」
「まぁな」
お前の旦那になる男だからな、と。
馬鹿みたいに恥ずかしいことをさらっと吐き出す男に、悔し紛れに付き出した左手は大きな掌に包まれて引き寄せられた。
20140331.
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