※未来時間軸。大学卒業後。





どれくらいの時間、踞ったままでいたかも分からない。体感時間は容赦なく神経を削って、数十年そのままでいるように思えるほど、最悪の展開を何度も繰り返し想像してはどん底に落ちてしまいそうになった。

本人から判決をくだされる前から、心はぐしゃぐしゃに握り潰されているようなもので。
メール一つ届かない携帯に神経を向けながら、膝に顔を埋めて座り込み待ち続けていたオレの耳に、幾度目かの階段を踏み鳴らす足音が届いた。

深夜に食い込む時間帯とはいえ、彼女以外にも住人は存在する。解っていてもついつい毎度顔を上げて確認してしまっていたけれど、今度ばかりは空振りには終わらなかった。



「あ…」



薄明かりに照らされた廊下に、姿を現した影が足を止める。
自室の扉の前に座り込むオレを見付けた、その表情までは夜目には確認できなかったけれど、発せられた声は強張っていて。



「あ…敦、くん」



ぎりりと、たった一言名前を呼ばれただけでも、身体の中が軋む気がする。
優しくて甘いはずの声が、忘れかかっていたぎこちなさを滲ませていて、息苦しさが増した。

何で、と泣きたくなる。
何でそんな、呼びにくそうに言うの。



「なまえちん…」



何でなんて、考えるまでもない。三日の間連絡もとれずに避けられて、現実を楽観視していたわけでもない。
それでも、胸が痛かった。やっと聞けた声にいつもの親しみは消えていて、嫌がられているような気すらして、身体が震えた。

弱音なんて、吐いてる場合じゃないのに。



「な…何か…用事…?」



いつまでも立ち止まってはいられないと思ったのか、静かな足音を立てて近寄ってきたなまえちんを、見上げられない。

用がなきゃ来ちゃいけないの。
まるで拒むような台詞に耐えきれずにぼそりと呟けば、返ってきた声はまたまごついたものだった。



「そんなわけじゃ…ないけど」

「じゃあ…」



そんなこと言わないでよ。会いたくないみたいな言い方しないでよ。お願いだから。
そんな権利もないのに、口にしたら責めてしまうから、飲み込んだ言葉が自分の身体を内側から突き刺していく。ぐさぐさと、刺さった場所から抉られる。

この子は何も悪くない。
唇を噛んで痛みに耐えながら、ポケットの中身を上着の上から握りこんだ。
用なら、ある。これ以上ないくらい、大事な用事が。



「待ってたんだ。なまえちんに、話があったから」

「聞きたくない」



なのに、一瞬、何を言われたのか解らなかった。

反射的に見上げてしまった彼女の顔は逆光で影になって、温もりを感じられない。



「は…?」



喉がからからに渇いて、絞り出した声が揺れる。
末端にまで、嫌な痺れが走る。頭の中が真っ白になって、とうとう息の根を止められたかと思った。



「聞きたくない、何も」

「…なまえち」

「ごめんなさい」

「待っ…何でなまえちんが謝んの?」



立ち上がるために地に膝をついて、捕まえようと伸ばした手が空振る。

避けられた。
もう駄目か、と挫ける自分を必死に、首を振って遠ざけた。
違う。駄目じゃない。駄目だなんて思うな。言わせるな。



「なまえちん、ねぇ」

「聞いてあげられない…ごめん、私…」

「お願い、聞いて。オレまだ、」

「いやっ!!」

「っ…なまえ!!」



カッとなって立ち上がり、踏み出した一歩で距離を詰めてしまう。
本気を出してしまえば、逃げられるようなことはない。けれど、壁に叩き付けた腕で小さな身体を追い込んでしまえば、限界まで胸が軋んだ。

こんな無理矢理な真似は、絶対にオレがしたかったことじゃない。
地面に落ちたバッグから、幾らか物が散らばるのが視界の隅に写りこんだ。空いた両手で耳を塞ごうとする手首を捕まえるのは簡単で、引き剥がしてしまえば顰められた瞳からぼろぼろと涙が溢れ出していた。

こんな顔だって、させたくなかった。
傷付けたくないのにいつもいつも、何度でも間違ってしまう。
いい加減に、愛想尽かされても文句なんて言えないけど。だけど。



「やだ、聞かないっ! お別れしたくない…っ!!」

「何言われても絶対別れないから…!!」



此処が何処で、今の時間が何時なのかも考えずに叫んだ我儘は、同じタイミングで吐き出された高い声と被さって妙に響いた。

拒まれるのが怖くて悲しくて、涙声になってしまった台詞を言い切って息を吐く前に、身体の動きが止まる。
オレだけじゃなく、捕らえられて逃げられずにいたなまえちんまでもが、ぴたりと抵抗を止めると涙に濡れたままの顔を上げた。



「……へ…?」

「……なまえちん…? 今、なんて…」



丸く瞠られた瞳の縁から、大きな雫がぼろりと零れる。
恐らく、同じだけ衝撃を受けたような反応だった。聞こえてきた言葉が信じられなくて、もう一度と縋れば、戦慄く唇が開かれた。



「話って…別れ話じゃないの…?」



がつん、と殴られたどころの衝撃じゃなかった。
震える声に訊ね返されて、頭から壁に叩き付けられたような気がした。



「なんっ…何でそうなんのっ!?」



なまえちんから別れを切り出されるならまだしも、何でオレが!!

苦行とも呼べない。沸騰した油に身を投げるような行為を、自分からしに行く意味が解らない。そんな自滅行為、誰がしたがるの。
つい詰め寄ったオレにびくりと肩を跳ねさせたなまえちんは、それでも珍しく言い返すように声を張った。



「だ、って…浮気じゃないって、敦くん言ったから…! だったら、浮気じゃないなら本気なのかもって思っ」

「んなわけねーじゃん! 何でそんなっ…オレがなまえちん以外に本気になるとか…本気で思って、言ってんの? 今になって…っ?」



何年一緒にいたんだよ、と今までと違う意味で視界が歪んだ。
酷すぎる。酷いにも程がある誤解だ。

それじゃあ、今までのオレの気持ちも言葉も、全部なかったことになってしまう。
あんなに好きだって、大好きだって、ずっと傍にいたいって表して離れなかったのに。
そんなの、あんまりだ。

そこまで信用されてなかったのかと、心が音を立てて折れかかる。
けれど、そこまで事態をぐちゃぐちゃに考え込んで勘違いしてしまうほどだったのだと、見上げてくる歪められた顔がものを言っていたから、耐えきれた。
この子が感じた痛みは、オレの比じゃないはずだと、思い出した。



「だって!…あんなとこ見て、他にどう思えばいいの…っ!?」



指摘は、尤もだった。
弁解する時間を取れなかったのも悪いし、疑われるような真似をしたのは間違いなくオレだ。
疑われる事実がなくても、傷付けたことに変わりはない。いくら責められても仕方がない。

そうだ。同じようなことが起きれば、オレだって疑わずにいられない。
傷付かずにも、不安にならずにもいられない。そう思ったんだ。



「敦くん、最近ずっとそわそわしてたし…っ」

「……うん」

「私といても考え事してたり、悩んでるのかと思って訊いてみても誤魔化されて、だから私、もう」



そわそわ、してたかもしれない。それは勿論、なまえちんのことを考えて。
いつ切り出そう、どう伝えよう、考え込んでは踏み切れずに握り締めた小箱はポケットに入ったままだ。



「もう、私好かれてないのかと、思って…っ」

「そんなわけない」



ああ、馬鹿だ。しくしくと胸に染み入る痛みを感じながら思う。
本当に、オレは馬鹿だ。どこまで行っても変われない。
この子にこんな顔をさせるために、傍にいたわけじゃない。幸せにしたくて、幸せになりたくて離さなかったのに、結果的に泣かせてるんじゃ様がない。



(ごめん)



ごめん。でも、やっぱり駄目なんだ。

掴んでいた手首を解放して、強張りきった小さな身体を腕の中に閉じ込める。
そっと、壊れないように大事にしながら、逃げられないように囲いこんだ。



「そんなわけない。絶対、誓ってねーし」



なまえちんを好きじゃなくなるなんて、ないよ。
ひくひくと喉を引き攣らせながらしがみついてくる、彼女の髪をぐしゃりと乱しながら息を吐いた。

幸せにしてあげたいのに、泣かせたって離したくはないなんて、本当救いようないよね。



「もし、万が一…なまえちんから心変わりしたりしたら、死んでもいいよ、オレ」



胸より下に押し付けられていた顔が、おもむろに持ち上がる。
情けなく眉を下げて、声にならない声を上げる姿すら愛しくて、手離せないことを実感した。

見つめ上げてくる、ゆらゆらと揺れている瞳に指先を近付けて涙を掬う。



「…しぬ…って」

「うん。今だって…なまえちんに見限られたら、死んじゃいたくなるから」



まるで脅しだ。まるでも何もなく、脅しだ。

だけど、死んでしまいそうなくらい、オレだって苦しかった。今まで構築してきた全てが、泡になって消えてしまうかと思った。
寧ろ、死んだ方が楽だったかもしれないくらい。

夜も眠れなかったんだよと、溢したオレの背中に漸く、彼女の腕が回された。







硝子の靴はお菓子になった




「話、聞いてくれる…?」



隙間がないように抱き締めたまま、問い掛けた声には頷きが返される。
胸の痛みが緩和されるのを感じながら、それでもまだ暫くは、このまま彼女の熱に浸っていたかった。

20140329. 

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