少し寄ってもいい?、と彼女が道端の花屋を指差したのは、部活休みに二人で出掛けた帰りのことだった。
こじんまりした入口には幾つかの鉢植えが並んで、派手ではないものの近くを通り掛かる人の目を楽しませる。彼女の申し出に勿論、と頷いてその扉を通り抜けた時、ふと既視感を覚えた。



「辰也くん、どうかしたの?」



立ち止まったオレを不思議そうに振り返ったなまえに、いや、と曖昧に首を捻って返す。
少し古びた赤レンガの床と、店内に入ってすぐに見えたアンティーク調の大時計にも目を奪われて、小さな確信を得た。

同じ光景を見たことがある気がする。



「なんだか、見覚えがあるなと思って…」

「来たことあるお店とか?」

「ああ…多分。昔一時期、秋田に滞在したことがあったから」



確か、親族の祝い事か何かの誘いを受けて、一週間ほど秋田に滞在していたことがあった。
小学生にも満たない年頃のことだから記憶は薄いが、それ以外に心当たりがないから恐らくは間違っていないだろう。
懐かしいような新鮮なような、不思議な気持ちで見回した店内には、鉢植えやアレンジメントが至る所に飾られてある。色とりどりの花の中でも特にオレの目を引いたのは、ガラスの向こうで保管された大量の切り花だった。

青や黄の細々とした、主役を引き立てるような小さな花。それから、詳しくなくとも知っている赤やピンク、白やオレンジといったメインになりそうな花。
バラ、ユリ、ガーベラ…カーネーション。



(…赤のカーネーション)



一度記憶の片鱗に触れれば、それは呼び水になる。
確か、そうだ。カーネーションを買いに、慣れない土地の花屋に一人で訪れた。
カーネーションということは春のことだろう。母の日には贈っていた覚えがあるし、それ以外で花屋に訪れる機会も滅多にない。

オレの視線に気が付いたのか、ガラスケースの中を同じように覗きこんだなまえは柔らかく頬を弛めた。



「カーネーション、好きなの?」

「そうだな…うん、好きかもしれない」



どの花も綺麗に咲いているけれど、薄い花弁がくしゃくしゃと集まった赤い花は記憶の奥底を刺激した。



「カーネーションといえば」



可愛い花だもんね、と相槌を打ったなまえが、不意に綻ばせた顔を上げる。
いつだって愛らしく写る小さな笑顔は、花に囲まれた場所であるのも相俟って一層輝いて見えた。



「私ね、小さい頃から毎年、ここで母の日にミニブーケを作ってもらってるの」

「ずっと?」

「うん。最初は普通の大きさのブーケだったんだけど、幼稚園生の頃だったかな…私のすぐ後に買いに来た女の子が、お花が足りなくて困ってて。だから一度纏めてもらってた花束を店員さんに頼んで、半分こにしてもらったんだよねぇ」



カーネーションの花束を、半分こにして。それからずっと、ミニブーケにしてもらうようになっちゃったんだけど。

そう言って笑うなまえに、胸に温かいものが広がっていく。つられて穏やかな気持ちにさせられる。語られた思い出の中の幼い彼女も、彼女らしく優しい子供だったのだろう。
なまえらしいね、可愛いな。常ならそう口にしていたところだ。けれど。

花束を頼むつもりなのか、少し奥にあるレジにつく店員に近寄っていこうとする彼女が、オレに背を向ける。
靡いた白いコートに、重なるものがあった。









カーネーションの花束を買おうと、オレがその店に訪れたのは夕方に差し掛かる時間帯のことだった。詳しい事情は忘れてしまったが、父親には他に用事があり一人で花屋のある場所を探していたのだ。
お陰で少しだけ道に迷ってしまって、辿り着いた時ちょうどに子供の手には大きな花束を抱えた女の子が、レジから引き返して来るところを目にすることになった。
その時点でガラスケースの向こうには花束にできるほどの本数のカーネーションは残っていなかった。店員に訊ねてもストックがないことを謝罪され、困りきっていたところにすぐ後ろから声を掛けられたのだ。

振り向いた先には、もう帰ったとばかり思っていた、最初に見た女の子が立っていた。



「あなたもおかあさんに、はなたばあげたいんだ」

「え……うん…」



もう少し早く来ていたら、自分の方が持って帰れていただろう。鮮やかな花束につい恨めしい視線を送ってしまったような気がする。
そんなオレの反応は気にも留めなかったのか、こくりと頷いた女の子はオレを通り過ぎるとレジに向かった。

じゃあ、半分にしてもらおう。
そうするのが当たり前のことのように自然な調子で吐き出された言葉に、オレはすぐにはついていけなかった。
えっ、と衝撃を受けているうちに、やり取りを見ていた店員に花束を渡そうとしていた彼女に、少し前まで恨めしく思っていたのも忘れて慌てて駆け寄った。



「い、いいよ! そんなことしなくてっ…」

「どうして?」

「だって、そしたら、きみのがへっちゃうし」



時間が遅かった、運が悪かった。そんな風に片付けてしまうことだと、子供心にも解っていた。
彼女に当たるのが筋違いだということも理解していて、他人に迷惑を掛けるべきでもないと思っていた。

なのに、オレの遠慮をこれもまたスルーして、年端の近そうな女の子は首を傾げたのだ。
不思議そうに、傾いた黒髪が白いワンピースを擽るようにして、滑り落ちた。



「…へらないよ?」

「え…?」

「おかあさんにありがとうって、つたえるひだもん。きもちはへらないよ?」



花の数は減らないわけがないのに、やはり当然のことのように彼女は言った。



「おはなをいっしょにわたすのは、そのほうがかたちがあって、わかりやすいから。きれいなものをみるとうれしくなるから、きもちといっしょにしてわたすの」



くるりと丸い黒目を、その時初めてきちんと向き合って、目にした。
驚いたオレの顔を見つめて迷いのない口振りで話す女の子に、声も出なかった。



「だから、おはなのほうはちょっとくらいちいさくてもだいじょうぶ。ね?」



だから、分けてもらおうよ。二つに綺麗に飾ってもらおう。
そう言ってくれた女の子は、ふわりと表情を弛めて。白いワンピースに似合う無垢な笑顔を浮かべていた。









「カーネーションといえば」

「え?」



母親の誕生日祝いだという、ガーベラの使われた花束を抱えて帰路につく彼女に向けて、店内で彼女が口にしたような調子で反復してみる。



「オレも、思い出があったことを思い出したんだ」

「へぇ…?」

「初恋の女の子の話なんだけどね」



隣を歩いていた彼女が振り向き、ぱちぱちと瞬く目で見上げてくる。
長い黒髪は白いコートを擽るようにして、滑り落ちた。その様を目に焼き付けながら、ほぼ確信する。



「カーネーションの花束を買いに行ったんだ」



あの店にね。

できる限り自然を装って、幼い頃の女の子との思い出を紡いでいく。
母の日に花屋に出向いたけれど、店に辿り着いた時にはカーネーションは数本しか残っていなかったこと。困っていた自分に話し掛けてきた女の子がいたこと。彼女の提案で半分にしてもらった花束のこと。
それから、その子の優しさと笑顔に一目惚れをしてしまったこと。



「とても優しい子だったんだよ。もう会えないのが残念で暫く悄気返ったくらい…笑顔も可愛くて、真っ白なワンピースがよく似合ってた」

「ふ、へぇ…」

「ああ、勿論今はなまえ以上に可愛い子なんていないよ」

「…そう…ですか…」



徐々に俯いていくなまえの顔は隠れて、その内に旋毛しか見えなくなる。
恐らく、オレと同じ思考に陥っているのだろう。



「それで…なまえ?」



微妙に離れていく距離を縮めるため、彼女の手が空いていないこともあって肩に腕を回し引き寄せれば、その全身がビクリと跳ね上がる。
その反応に確信は深まった。

ああ、こんなことがあるのか。



(これが、運命ってやつかな)



という、込み上げるあたたかな感動は、今はさて置き。



「誰が、女の子だって?」



意識して低い声を出して訊ねてみれば、ひっ、と引き攣る彼女の喉。
恐る恐るといった風にぎこちなく持ち上がった顔は、満面の笑みを浮かべたオレを見ると震え上がった。

失礼だなと思う気持ちもあるが、怯える彼女もそれはそれで可愛いので良しとする。
おろおろと慌てて弁解するのも、ついもっと突きたくなるくらいには魅力的ではあるわけだし。



「ご…ご、ごめっ…てっきり、あの…だって可愛かったから……っ」

「女の子みたいな格好をしていた覚えはないけどな」

「それ、は…辰也くん美人さんだからそう見えても仕方ないと」

「なまえ」

「ごめんなさい」



腰を折ってぐい、と顔を近付れば、素直な彼女の首はがくりと項垂れる。
本気で怒っているわけでもないので、苛めるのはそれくらいで留めておくことにした。

それに、横に置いておきはしたが、奇跡のような出来事への感動の方がずっと大きい。



「でも、こんな偶然があるんだな…」



長い年月を経る内に、遠くへ追いやった初恋だったはずだ。自分でも忘れていたものが、知らない内に手の中に舞い戻っていたなんて。

幼かったこの胸を震わせた女の子は、変わらずまた心を揺さぶってくれたらしい。
どちらにしろ落ちたのが自分の方だと分かると、悔しさも越えておかしくなる。
どうしたってオレは、彼女に惹かれずにはいられないのだと。

喉を鳴らして笑うオレに、身体の強張りを解いたなまえもしみじみと頷いて同意してきた。



「うん…びっくりした」



まさか、ずっと昔に初対面を済ませていたなんて。
真剣な表情で呟く彼女の横顔は、見慣れたものだ。

いつか諦めたものが、自分の隣を当然の配置としている。
高まる感情は身体中を満たして、どこかから溢れだしてしまう気もした。



「本当に、運命だったのかもしれない」



これも一つのギフトか。

長い髪に顔を埋めるようにキスを落とせば、それまで真面目なものだった表情が綻ぶ。
仕方なさげに、喜びを隠さずに。返された笑みは鮮やかな花束よりもこの目に焼き付いた。








走り出すのは六秒後




「まあでも…やっぱり気に入らないかな」



人前でも拒まれないギリギリのラインを見極め、触れ合いを楽しみながら落とした言葉に、照れながらもされるがままになっていたなまえが首を傾げる。

思い出せば一層愛しくなるその顔に、けれど小さな不満は付き纏う。



「オレはなまえに一目惚れしたのに、なまえの方は性別まで誤解していたらしいし」

「…う…いや…それは」

「結局いつもオレの一方通行ってことだ」

「…辰也くん?」



不穏な空気を感じたのか、再びじり、と離れようとする彼女を引き止めながら笑う。

怒っているわけではないが、引っ掛かるのは事実。諦めてはいるが、悔しさがないとも言い切れない。
なまえ、と名前を呼ぶ声が妙に甘ったるく響くと、それに気付いた受け手は不安げに揺れる瞳で見上げてきた。

オレの初恋の人は、相変わらず可愛らしい。喜ばしいことだ。



「覚悟しておこうか、なまえ」



感動と、伴う執着。それから、振り回されるばかりの意趣返し。
全て、受け取ってもらわなければ気が済まない。

にこりと微笑んだオレの中身を悟ったらしい最愛の彼女は、盛大に身体を震わせて首を横に振った。

20140321. 

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