※未来時間軸。大学卒業後。
今度はどこから、選択を間違ったんだろう。
真っ白になって止まった頭の中で、疑問だけが渦巻いて答えが見つからない。
手先から力が抜けていく感覚に焦る気持ちは湧くのに、今にも襲いかかってきそうな絶望を察して不安に押し潰されそうになる。
身体中に針を刺されるような痛みが響いてくる。覚えのある感覚だった。
この状態になると、オレはいつもうまく立ち回れない。
「っ…なまえちん」
お願い。こっち向いて。
言いたい言葉は喉の奥で詰まって、出てこない。
腕だけで繋がって、オレを見ない背中は微かに震えていた。
「あの、ね…誤解、だから。絶対勘違い…いや、勘違いされて当然の状況だし、なまえちん悪くないけど、オレが悪いけど、でも勘違いでっ…」
「…敦、くん」
「オレ浮気とか、絶対してないからっ…なまえちんにしか、」
「ごめん」
追い掛けて、捕まえた。聞いてほしくて、必死に言葉を探して紡ごうともした。
けど、それでも、足りなかった。
「ごめん…私、今、余裕ない…頭も冷やしたいし、もう行かなきゃ」
離して。
たった一言に、どすんと深く心臓を貫かれて揺らぐ。
立っていられないくらい全身から力が抜ける。掌から抜け出した細い手首にそれ以上追い縋ることなんてできなくて、小さな背中が走り去っていくのを呆然と見送った。
もう、あんな背中を見たりはしないと思っていたのに。
「……あああ…」
言葉にならない呻き声を上げながら、本気で思った。
自分の馬鹿さ加減が憎くて、じくじくと痛みだした胸元から息が詰まっていく。二度も追い掛けるだけの勇気も心構えもなかった。
どうしよう、死ぬ。かもしれない。
少しずつ濁って重くなっていく胸を自覚しながら、彼女を追い掛けて下りかけていたマンションの階段を裸足のままもう一度上る。自分の顔に死相が出ているような気がするほど、生きた心地がしなくなっていく。
いつまで経っても慣れられるような感覚じゃないし、味わいたくもない。
頭の中は後悔でいっぱいで、幸せに繋がるものが削られていく予感に目の前が暗くなりそうだった。
(最悪)
最低、最悪だ。
自分を殴り殺してやりたいほどの馬鹿をやらかした。
自業自得。弁解の余地がなくても仕方がない。
足元が覚束ないまま飛び出して開きっぱなしだったドアを潜れば、室内から玄関近くまで移動してきていたらしい女が気遣わしげに見上げていて。
お前の所為で。
視界に入った瞬間、そう怒鳴りたくなる気持ちを抑えるのに唇に歯を食い込ませた。
「あ、ねぇ、紫原、さっきの…」
「帰って」
申し訳なさげな顔付きで話し掛けてきた女の声を冷たく遮るオレは、本当に余裕がなかった。
けれど、解ってはいた。自分が浅はかな行動をとったという自覚はちゃんとあった。
それがあっても、諸悪の原因が自分だけにない状況で、誰かに優しい言葉をかけられなかっただけで。
どれだけ殊勝な顔をされても、気にするななんて言ってやれなかったのは仕方がないことだと思う。
そもそも本当に、そいつの所為で彼女に逃げられてしまったんだから。
「…っ…あ、あの、やっぱり彼女…だったんだよね? 私の所為で喧嘩しちゃった…?」
「いいから帰って」
「いやでも、誤解とく手伝いくらい…」
「煩いって…帰れって言ってんの、解れよ!」
「ひっ!」
思わず、殴ってしまった壁から壊れそうな音がした。
青ざめ強張っていく女の顔なんて、見る気もしない。
「今オレ、本当余裕ないから…当たられて怪我したくなかったらさっさと帰って」
例えば、そいつが動くのも怠いくらいの不調に襲われていたとしても、もうどうだってよかった。
オレの方が先の見渡せない最悪の状況に突き落とされているんだから、当たり前だ。自分が辛い時に親しくもない女を気にしてやる謂れはなかったし、気にするなら傷付いた目をしていた、彼女の方がずっと気になるし考えずにもいられない。
バタバタと慌ただしく部屋を出ていった気配を振り返らず、閉じた扉に鍵をかけて部屋の奥に戻った。
一気に襲い掛かってくる不安と後悔、それから行き場のない怒りが降り下ろした拳に宿ると、何かに当たらずにはいられなかった。
騒音を気にすることができただけ、理性は残っていたのかもしれないけれど。
マット越しでも軋んだ音が出るくらい何度も、ベッドの上に腕から先を叩き付けた。
息が切れて、力を振り絞れなくなってくる頃、膝を折って座り込んだオレの顔はそこに沈む。それだけ八つ当たりを受けたベッドのどこにも、穴一つ開かなかったのは奇跡だと思う。
「……死ねよ…」
もう、本当に。何やってんだよ。
狭い視界の中、近くのテーブルに放り出したままの携帯と掌に握り込めそうな箱が目に入って、ぎりりとまた心臓が締め付けられる。
頭が重いのは、昨日飲んだ酒の名残じゃない。
こんなことをやっている場合じゃないのに、形振り構わず走れる子供ではなくなってしまったことが、悔しくて仕方がない。
追い掛けて、叫んででも説得したかった。時間や立場が許すなら。
今の自分と彼女には仕事もお互い以外との予定もあって、感情だけで引き留めるようなことは簡単にはできなくなってしまった。
(……電話…)
今日の予定は、どうだったか。
あの調子では電話をとってもらえないこともあるかもしれない。考えたくはないけれど、メールの方が確実か。
「あー、もう、何で…」
何でこんな肝心な時ばっかり、オレはしくじるようにできてるんだろう。
大事な話を持ち掛けて、一生を縛る約束を捧げて、ハッピーエンドに向かわせようと考えていた矢先に。
こんなことになるなら、やっぱり最初から彼女以外は男女とも適当に切り捨てておけばよかった。
昨夜参加していた大学の同窓会と託つけた飲み会を思い出して、今更吐き気が込み上げてくる。
参加しても、早めに切り上げていれば顔見知りだからと酔い潰れた女を任されたりもしなかったはずだ。引き際を誤ったことも自分の甘さも、嫌になる。
所持金の確認もできず、意識朦朧な女を一人どこかに放り出すことができなかった。彼女との約束はなかったはずだと考えて、渋々部屋まで連れ帰ったのはオレの落ち度だ。
誓って妙な気は起こしていないし、手も出していないけれど。
そんなこと、言い訳にならないだろ。
同じようなことを自分がされたらと思うと、信じることはできても傷付かずにはいられない。一瞬は絶対に疑ってしまう。想像しただけでも泣きたい気持ちになる。
こんな気持ちを彼女に味わわせてしまったことを思ったら、堪らなかった。
最低、最悪だ。
「予定…夜…」
昨日から今日までの経緯と、仕事が終わった後、都合がつけば会えないかという文面を打ち出したメールを送信する。
誤解を解くのは早い方がいい。明日明後日はオレの都合が合わない可能性があるから、今夜の内に時間をとれることを願った。
「なまえちん…なまえ…」
送信完了の文字が出ても、携帯を握り締めたまま。暗く湿った空気ののし掛かる部屋の中で、か細い声が響いては消える。
どこで間違ったかなんて、考えたって無駄だ。解ったとしてもやり直せない。
どうすればいいか、考えないと。どうにかしないと。
どうにかしないと、先がない。
「…お願い」
お願い、お願いだから、振り向いて。話を聞いて。
折れそうになる気持ちをどうにか保たせて祈るように握りこんだ携帯。
それは夜まで、夜を過ぎても、彼女からの着信を知らせることはなかった。
越えられない巨大な壁
殴られたって詰られたって、疑われたって構わないから、ただ話を聞いてほしかった。受け入れてもら得るまで届ける気持ちなら、あったのに。
あの時オレは、どうすれば正解だったんだろう。
20140201.
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