※未来時間軸。結婚してる二人です。








今日ほど、間の悪さに嫌気が差したことはないかもしれない。

汗で湿った寝巻きが鬱陶しくて息を吐く。強く響いていた頭痛は、少しだけ軽くなったようだけれど。
横になっていた身体を起こして、日が沈んだ所為で暗くなってしまった室内を確かめるともう一度溜息が漏れた。

数日前から張り切っていたのに、浮かれて注意が鈍ったのだろうか。急な発熱に崩してしまった体調は昨夜から一晩かけて漸く落ち着いたようで、壁に掛かった時計の短針は十の数字から少し上にずれた部分を指していた。

どう考えても、今から何かを用意するには遅すぎる時間だ。できてもきっと本調子でなければ余計に心配をかけて、安静にしていろと止められるだろう。その図は容易に想像できる。
不甲斐なくて悲しくて、ずんと心が重くなる。怠さの残る身体に余計に負担をかけるようでも、落胆する気持ちは拭えなかった。



(大事な日なのに…)



壁掛けのカレンダーの今日にあたる日付には、数字の横にシールが一つ貼られている。
寝室だけでなく、家に置いてある全てのカレンダーに一つずつ貼り付けたものだ。
意味を思い出して泣きたくなる気持ちを、振り払いたくて立ち上がる。過ぎてしまったことはしょうがない。
いつもならまだ寝床に付く時間ではないし、リビングに行けば彼がいるはずだ。そう考えるとどうしても一人でベッドに潜っていたくはなくなって、冷たい床に足を下ろした。

部屋を出て、あまり足音は立てずに進んだ廊下は静かで、想像通りリビングから漏れる灯りに照らされていた。
入り口まで来ると、定位置の椅子に腰かけて仕事の書類に目を通していたテツヤくんが、気配に気付いて顔を上げる。



「なまえさん」



手にしていた書類をテーブルに置いて、ほっとした様子で私を呼んだ彼にまた少し心が重くなる。
昨夜から心配をかけ通しでいたのも申し訳なく、それ以上にタイミングの悪さが一番悔しくて堪らない。



「起きたんですね。気分は少しはよくなりましたか?」

「う、ん…大分楽にはなったよ」

「それならよかった」



私の胸には後悔が溢れているのに、近付いて見た彼の顔に影はない。
責められることはないとは思っていたけれど、心底安堵したような表情を向けられるとどうしようもなく、胸の内側が萎んでいく感覚がした。



「今まで寝ていたならお腹空きますよね…あまり足しにはなりませんけど、さっき温めたばかりなのでどうぞ」

「…ありがとう」

「どういたしまして。やっぱりまだ元気は出ませんね」

「ん……」



私に合わせるようにして立ち上がり、自分用であったはずのマグカップを渡してくれたテツヤくんに、ソファーまで誘導される。
二人掛けに腰掛ければすぐに隣に彼が座る。けれど顔を見上げる勇気は芽生えず、受け取ったマグの中身に逃げるように視線を落とすと、中ではゆらゆらと乳白色が揺れていた。

両手で包み込んだマグは、掌からじわじわと熱を伝えてくる。
行動も何もかも、彼から与えられる全部が優しさに溢れていて、だからこそ居た堪れなさが増す。
どうしようかと、思うくらい。



(テツヤくん、優しい)



いつも、だけど。
弱った心にはいつもより染みてしまう。
一口飲んだホットミルクは甘く、舌に仄かな蜂蜜の味を残して喉奥を温めながら下っていった。

無意識に息を吐き出すと、伸びてきた手に額、首の熱を確かめられる。
熱は下がったみたいですねと、また安堵を滲ませた声が甘いミルクと一緒になって身体に染み渡った。



「…ごめんね…ご飯もまともに作れなくて…」



熱を測った後、髪を撫で始めた手にされるがままになりながら、口を開く。
優しい言葉に態度、手付き。全て愛しいのは本当なのに、私の方がこれでは申し訳なさ過ぎる。

テツヤくんは、ちゃんと食事を済ませてくれたのだろうか。
あまり想像できなくて、訊ねればはぐらかされそうな気がした。



「体調が悪いのに無理される方が困ります」

「でも、今日は特別なのに…。私、情けなくて…」



私を甘やかす言葉は、本音だろうと思う。無理を強いる人でも、思い遣りのない人でもない。
けれど、私個人の気持ちとしては、割り切れないものもあるのだ。

一人眉間にシワを寄せていると、よしよし、と慰めてくれていた手に頭を引き寄せられる。
見た目よりもしっかりとした肩から服越しにじわりと熱が伝わって、手に持っていたマグを落としてしまわないようミニテーブルに逃がした。

彼に身を委ねながらも、しくしくと痛んでいた胸の奥に室内の静寂が染み込んでいく。



「こんな日に…ちゃんと、奥さんらしくできなくて…ごめんなさい…」



リビングのカレンダーにも貼ってある一枚のシールが視界に入って、どうしても、落ち込む心を掬い上げきれない。こんなに優しくされているのに、本当にどうしようもない。
泣きそうな気持ちで謝ると、頭を撫でていた手付きが僅かに強さを増した。



「なまえさんはいつだっていい奥さんなんですから、一日二日くらい休んでもいいんです」

「でも…記念日なのに」

「元気が出てきたら改めてお祝いしましょう。記念日は大切ですけど、記念日だけが大切なわけじゃない」



私の気持ちを咎めて、強く言い聞かせるように、俯けられた頭がこつんとぶつかる。
肌を通して、振動を感じる。この距離感が当たり前になったのはちょうど、一年前の今日からだった。

やんわりと絡めとられた左手には、同じ場所に同じ指輪が光っている。
持ち上げられた手は、私達の顔のすぐ近くでその輝きを見せ付けるように止められる。

一年経ちましたけど、と、囁く声はほんの少し笑っているように聞こえた。



「なまえさんと過ごす毎日が大切です。特に、笑っていてくれる時が一番」

「…テツヤくん」

「幸せそうにしているなまえさんの隣にいるのが、ボクは幸せなんですよ」



だから、心から喜べる日にしなくては意味がないのだと言う。
記念日はそんな顔で過ごす日じゃないんですよと、叱るように小さく摘ままれた頬は痛みを感じる前に解放された。



(…ああ)



そっか。

沈んでいた胸の中、ことん、と。その時落ちてきたものは軽くはなかったのに、重苦しい気持ちを染め替えて浮上させてくれた。

幸せに祝えなければ、記念にならない。気付かなかったことに気付けて、息をするのが楽になった。



「私…」



私が口にするべき言葉は謝罪ではなくて、感じるべき気持ちも罪悪感ではいけなかった。

彼の肩から顔を上げて、俯きっぱなしだった視線を持ち上げる。
そこには、私を待って瞳を弛めてくれている、誰よりも大切だと言える人がいた。



「私、テツヤくんと結婚して…こうしていられて、とっても幸せ、です」

「はい、ボクもです」

「いつも…今日も、たくさん、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう。これからもよろしくお願いしますね」

「うん…ずっと、ね」



ずっと、よろしくお願いします。あなたの傍にいたいです。

愛してる、と伝える代わりに重ねた唇はいつもよりも一層優しく、甘くて。
両手の指を絡ませながら、少しだけ泣いて、笑ってしまった。








ホットミルクと甘い夜




記念日に負けない幸せな日が、あなたの傍でなら続いていくと信じられる。



 *

黒子バースデー×愛妻の日
20140131. 

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