些細なことから、人は変わるものだと思う。
性格が良くなったりしたわけではなくても、少しの勇気と配慮を心掛けているだけで私の周囲環境はぐんと良い方向に変化した。
目を見て会話すれば、どんな態度がその人の気分を損ねるのか察知できる。
それを覚えて行動すれば、当たりは柔らかくなる。
それは至極当然のことで、誰もが成長するにつれて身に付けていく処世術というものだ。
けれど、人見知りを拗らせていた私にとってはそんな当然の行動すら新鮮で、魔法か何かにでもかかったような気すらしている。
だから、切っ掛けをくれた存在が、とても大きく胸に居座ってしまうこと。これもごく当たり前の流れだった。
「何、まだ残ってたのお前」
「!」
ガチャン、と少し古びた音を立てて開かれた部室の扉と、聞こえた声に肩が跳ねる。
「宮地先輩、お疲れさまですっ」
顔を見る前に振り向いて頭を下げると、おう、と短い返事が落ちる。たったそれだけのことで身体に水素を詰め込みでもしたかのように、フワフワと浮き上がりそうな気持ちになる。
反射的に立ち上がってしまったベンチに腰掛けなおしながら顔を上げると、既に着替えを済ませて学ランのボタンだけを開けた姿の先輩は軽く眉間にシワを寄せていた。
以前までなら気分を損ねてしまったかと怯えているところだけれど、今はそんな顔にも怖さは感じない。
部活時間も過ぎているのに居残る私を訝しく思ったのかな、と当たりをつけてみる。
「個々の追加メニューの確認をしてました。まだ和くんも残ってますし」
「ああ、高尾…待ってんのか」
「あ、いえ…暗くなる前に先に帰れとは、言われてるんですけど」
納得して頷いてもらえたのに、否定するのは少し気を使う。
ロッカーに向かっていた先輩は予測できた通り、は?、と再び疑問符を浮かべてこちらを振り向いた。
「反抗期か?」
「は、反抗期というか…なんだか最近また様子がおかしいので…前よりちょっと厳しいっていうか…だから、」
「まぁ、そりゃそーだろうな」
「え?」
少しずつ、私の意思で動くことを受け入れてもらいたくて。
そう続けようとしていた言葉が、何故か今度はあっさりと頷かれて停止する。
まるで和くんの幼馴染みである私が知らない理由を、先輩の方は理解しているように見えて戸惑った。
「あの…?」
「あいつどうせ緑間と帰るつもりなんだろ。なら、お前はとっとと帰り支度済ます。メニュー確認は明日の空いた時間にやる」
「え? あ、はいっ」
びしり、と言い付けられると、身体は素直に動き出す。
隅に置いておいた鞄に駆け寄り急いで支度を整えれば、あとは帰るだけといった様子で扉近くの壁に寄り掛かっていた先輩が頷いた。
「ん。じゃ、帰んぞ」
「…えっ?」
入って来た時と同じ音を立てながら、開けたドアを潜る先輩を慌てて追い掛ける。
言われた通りに動きはしても状況は掴めなくて、訊いていいものかと迷いながらも少し前を歩く先輩の顔を見上げた。
「あの、先輩、帰るって」
「ちょっと寄って買って帰るもんあるんだよ。家まではさすがに送れねーけど、途中までは同じ路線」
「へっ!?…あ、え…っ?」
「さっきから度々言葉になってねーんだけど、何。不満でもあんの?」
「いいいえ! まさかそんな、不満なんてっ」
まさか、不満どころか…嬉しくて、頭がうまく回らないくらいです。
言葉に出すのはあんまりだから、胸の中だけで呟いておく。部活中くらいしか関わりを持てない先輩のはずなのに、学校を出てから一緒にいさせてもらえるなんて。
想像したこともない嬉しい事態に、勝手に弛んで熱を持つ頬を押さえる。
胸の内側がぽかぽかしてしょうがない。
「でも、い…一緒でいいんですか?」
「だから…いいっつってんだろ。てか、帰るか帰らないかハッキリ決めろ!」
「っ、はい、ご一緒させてくださいっ!」
「よし」
剣幕に圧されて慌てて返事をすれば、一瞬だけぐしゃりと大きな手に頭を掻き撫でられて、息が止まる。
たまにこうして接触されることがあると、私の鼓動は一瞬の跳ね上がりから動きを速めてしまう。
先輩の手は大きくて筋張っていて、少しだけ力が強いけれど、優しくて。
触れられると、心臓がきゅう、と鳴き声をあげそうなくらい苦しくなってしまうのだ。
(でも、嫌じゃない)
苦しくて、頭の中も先輩のことで一杯になってしまうのに。嫌じゃないどころか嬉しいような気がするから、おかしいなぁと思う。
他の人にはこんな風になったことはないから、宮地先輩は特別なんだろうな。
そんなことを考えながらその背を追うように斜め後ろを歩いていたら、不意に耳に馴染む声に名前を呼ばれた気がして。周囲を見回せば、近くを通り過ぎようとしていた体育館から出てきたところらしい幼馴染みが、片手を挙げて私を呼んでいた。
「和くん?」
「あ? 高尾か」
呼ばれているみたいだけど、どうしよう。
前を歩いていた先輩を窺うと、私よりも先にそちらに踵を返してくれたので、後を追う。どちらも蔑ろにしなくてすんだことにほっとしながら近付けば、何故か険しい顔をした幼馴染みに勢いよく肩を掴まれた。
「ちょっとなまえ、先輩と帰んの!?」
「!? う、うん。途中まで電車、一緒らしいから…」
お、怒ってる…?
さっきまでとは違う意味で跳ねた心臓を胸の上に手を置いて落ち着かせる。
普段は気が利いて優しい幼馴染みの必死の形相を、なんだか最近やけに目にしている気がする。
とりあえず正直に頷いて返せば、今度はがくりと首から俯かれてしまった。
「っ……くっそ…もう、何か…くっそ……!」
「ど、どうしたの?」
「宮地先輩」
「何だよ」
具合でも悪くなったのかと、リアクションに戸惑いながら掛けた声は珍しく無視される。
代わりに、私が今まで耳にしたことがない地を這うような低い唸りが、隣に立っていた先輩に向けられた。
「からかってるだけなら許さないっすから」
とても真剣で憎々しげな眼光付きで。
よく解らない流れながらも驚いてその視線を追えば、睨み付けられた先輩はその目を眇めて口角を上げた。
ノンストップ!
「さぁ、どーだかな」
二人のやり取りは理解できないのに、挑発的な笑みから目が離せない。
幼馴染みが次に何かを言う前に、立ち尽くしていた私の腕が掴んで引かれる。その部分から、再び走り出した鼓動がばれてしまいそうなのに、やっぱり嬉しくて。
おかしくなるのに、止める気になれない。
背後で響く深い深い溜息よりも、前を歩く広い背中が気になって。
背中越しに掛けられた帰るぞ、という一言に、ふにゃりと弛む顔も自分ではどうしようもなかった。
20140126.
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