「そういえば、みょうじさんはアツシを名前で呼ばないんだね」
「え…?」
今日も今日とてマネージャー業に精を出そうと準備をしている最中、紫原くんを急かしてから体育館へ向かえば、いつも通り集まりの早い氷室先輩に唐突に切り出された。
ボールやボードの準備を手伝ってくれる先輩にお礼を言うより先に、掛けられた言葉に首を傾げてしまう。
名前ですか?、と訊ね返せば、普段と変わらない整った造形が頷いてみせる。
「聞いたことないなと思って。何か理由でもあるの?」
「いえ、特に理由は…ないですけど」
そういえば、呼んだことなかったかも。
言われてみるまで考えもしなかった。私の中では中学初期の頃から、彼の名前は紫原くんで定着してしまっていて名前をきちんと呼んだ記憶は少ない。
例えば家族の前なんかでは、さすがに名前でしか区別できないからそうするけれど。本人に名前で呼び掛けたことは一度もないことに今更気付く。
「名前で…呼んだ方がいいんですかね?」
「うーん、オレはアツシじゃないからな…でも苗字よりは名前の方が、周囲からは親しく見えるだろうね」
アツシ本人がどう思ってるかはさすがに分からないけど。
にっこりと笑ってそう言った先輩の言葉が、少し胸に引っ掛かった。
(親しく見える、か…)
その日の部活が終わってからも、言われた言葉が頭の中を巡った。
もしかして、今の呼び方や接し方はそんなに親しく見えないのかな…。
周りからの見え方はそこまで気にならないけれど、本人にどう思われているのかは何となく、考え始めたら気になってしまう。
彼の方は私と関わり直した時から、あだ名ではあれど名前を呼んでくれていたから、余計に。
寮までの帰り道、隣でお菓子を食べながら歩調を合わせてくれている紫原くんを見上げると、私の視線に気付いた彼は不思議そうに首を傾げた。
「どーかした?」
「…うん…あのね、紫原くん」
「なにー?」
「えっと…」
どう切り出せばいいんだろう。
自然と繋がれている手に、力がこもる。
言葉を選んでいる間に手持ちのお菓子を咀嚼してしまった紫原くんは、私の反応を見て眉を下げた。
「なまえちんどうかしたの? 何かあった?」
「え、いや、何もないよっ…ただ、あの…」
「?」
「ものすごく今更、なんだけど」
「うん?」
何もないのに心配されるのは困るし、慌てて否定する。
私の言葉を信じてくれたのか、すぐに表情を弛めた彼は続きを聴こうとじっと見下ろしてくる。
なんだか、そう集中されると恥ずかしくなってくるのだけれど…。
むずむずと擽ったいものを胸に感じつつ、これ以上引き延ばすより直接言ってしまおうと息を吸い込んだ。
「…っ……あ、敦くん」
「え」
ぴたりと、先に足を止めたのはどっちだったろうか。
目を丸く瞠って固まる彼を見上げて、自分の頬まで熱が上がるのを感じた。
「敦くん、って呼んだ方がいい?」
本当に今更過ぎて、羞恥心が込み上げる。妙に緊張して吐き出した質問は、数秒の間答えを貰えなかった。
けれど、恥ずかしくなったのはどうも、私だけではなかったようで。
「う…え…んっ…ええ? 何でいきなり?」
「その方が親しく感じるかな、って…駄目、かな」
「だ、駄目ってゆーか…」
薄暗い空の下でも判るほど、赤くなった顔と狼狽える姿が、目に焼き付く。
わたわたと、お菓子を失った手が意味もなく空を掻いて、繋がれた方は少しだけ痛いくらいに握り締められた。
なんだか、もう、それだけで胸がいっぱいになってしまう。
「…敦くん」
「っ…なまえちん…あの、待って」
ドキドキするのに、いつもとはまた少し違って。
本当に、本気で照れて慌てる彼を、もうちょっと見続けていたい、なんて。
「敦くん」
「だから、あー…っ」
「敦くん」
「……ねぇ、ちょっとなまえちん楽しんでるよね…!?」
わざとでしょ、と睨んでくる顔すら、僅かに下がった眉や耳まで赤くなった様子では迫力なんてなくて。
「敦くん、可愛い」
ふにゃふにゃに自分の頬が弛んでしまうのが分かったけれど、これは止められない。
どっちがだし、と悔しげに呟いた、彼の方が本当に可愛かった。
Habit
(なまえちんそれ禁止ね…)
(敦くん、駄目なの?)
(駄目!…いや、しばらくは駄目!)
(いつになったらいいの?)
(いっ…も、もうちょっと仲良くなってから…とか)
(もう仲良いつもりなんだけど、な…)
(……な、慣れさせて…ください)
(ふふ…はい、解りました)
(なまえちんすげー楽しそうだし…)
20131209.
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