病魔というものは、中々罪深い存在だったらしい。
薄暗い室内に放り出された荷物は適当な位置に移動させて、脱ぎ捨てられたらしい制服をチェストの取っ手に下げられたハンガーにかけてから見回した室内は、軽く乱れていた。
埃やゴミが散乱しているということはないものの、恐らくそう遠くない時間帯に食べられたらしいパンの袋と錠剤の入った小さな箱、半分以下の水が残ったグラスを立てられたままのミニテーブルに見つけて、嘆息する。
ろくに栄養を取っていなさそうだとは、思っていたことだけれども…。
「消化しにくいよ…パンは」
来る前に寮内の調理室を借りてよかった。
運んできたトレイをグラスの近くに下ろして、人の形に盛り上がったベッドの枕元付近で床に膝をつく。
珍しく学校を休んだ恋人、この状況を見るに昨日の内には体調を崩していたことは明らかだった。
(こんな時だけ、連絡くれないし…)
元から弱味を表に出したがらない人だとは理解していたけれど、胸の辺りがもやついてしまうのも事実。
連絡してもらえても、寮への異性の出入りは時間帯に制限があるし、夜に知らされても何もできなかったとは思う。
けれど、それでもやっぱり、心配くらいはさせてほしいというのが私の本音で。
その不満を訴える代わりに看病すべく、授業が終わってすぐに必要なものを買い集めてここまでやって来たわけだけれども。
「熱…は」
布団から覗く普段よりも血色のいい顔に、うっすらと寝汗が滲んでいる。
眠っているところに許可なく触れるのは少し申し訳ないけれど、この場合はそんなことも言っていられないだろうと長い前髪を掬い上げて額を重ねた。
至近距離で見つめる肌は傷一つない綺麗なもので、長い睫毛に縁取られた目蓋は閉じられている。
眠っていても美人さんだなぁなんて、こんな時に考えることでもない。けどまぁ、辰也くん相手だから仕方がないということで。
「んー…やっぱり、熱いよねぇ」
正確な体温は計れなくても、私の額に伝わってくる熱にははっきりとした差があった。
顔色からも明らかなことではあったけれど、どうしようか。
何となく、勘が働いただけ。彼のことだから自分の身体は疎かにしている気がして、放っておいたら余計に病状が悪化するような予感がしたのだけれど。
強ち外れてなさそうだなぁ、と悩みながら身を離そうとした時、整った眉が僅かに歪むのが視界に入った。
「ん……」
小さな寝息が漏れたかと思うと、一度むずりと中央に寄ったパーツが弛む。
タイミングを読んだかのように、重たげに持ち上がった目蓋の下から現れた瞳は力なく目の前、近い場所にいる私を見つめる。
「あ、れ……なまえ…?」
いつもよりも赤みの差した頬、寝起きと怠さに掠れた声やとろりと潤んだその目に胸が跳ねてしまうのは、やっぱり仕方がないことだと思う。
美形って、恐ろしい。
そして病魔も、色んな意味で。
私まで熱が上がりそうになるのを堪えながら、とりあえずは寝覚めた彼に頷き返すと、頭が痛むのか手をあてながらものろのろと起き上がる。
驚いた、と呟いた彼の目は、私から一度も逸らされなかった。
「何か、あった?…というか、いつからいたんだ…? 駄目だよ…感染するから、ここにいたら」
「辰也くん…それ、病人が気にすることじゃないからね」
「…ああ…まぁ、そうだけど…なまえにはうつしたくないし」
「調理室で梅粥作らせてもらってきたの。多分朝から食べてないんじゃないかと思って…食べれる?」
「…いや、だから…なまえ、」
「心配、したよ」
弱った声を遮って、言いくるめることは簡単だ。普段とは逆のやり取りに力関係を傾けると、息を詰まらせた辰也くんの首が俯く。
けれど視線はやっぱり逸らされないから、私はほんの少し強めていた目力を弛ませた。
「大事な人の心配くらい、させてほしいの」
「……ごめん」
「とりあえず、食べれるだけ食べて。薬はあるかと思ったから、スポドリと冷却シートだけ買ってきたから。あと、時間が来るまではここにいるつもりだから、してほしいことがあったら言ってね」
悄気た子供のような視線が、俯いたままの顔から向けられる。
それが珍しくて、つい可愛いなんて思ってしまう私は、もう何度もそれを逆手に取る彼に痛い目を見せられてきているのだけれど。
トレイごと布団越しに膝の上へ移動させてれんげだけ右手に握らせれば、少しの間を置いてまだ湯気を立てるとろみのついたご飯の中にその先が沈んだ。
ゆっくりと口に運ばれたお粥は、見合うテンポで咀嚼される。ただの梅粥だからそこまで味という味付けはしていないけれど、一口一口減らしていく彼の表情は僅かに弛んでいたから、弱った味覚には悪くはなかったのだろう。
数分をかけて綺麗に空になった器をトレイに戻す間際、美味しかった、と落とされた言葉に私も微笑む。
「これだけ食べられるなら、すぐ元気も出るね」
昨日から今日にかけての方が、辛さはあったのかもしれない。その時に傍にいられなかったのはもどかしいけれど、早く治るにこしたこともない。
再びトレイをテーブル側に移し、片付けは後回しにドリンクと薬の箱を引き寄せた。
「えっと、薬は…」
「…なまえ」
「うん?」
箱の裏面の表示を読みながらベッドへ向き直ろうとしていたら、名前を呼ばれた。顔を上げてみれば、熱を測った時と変わらないくらいの近さで視線がぶつかる。
焦点が揺れているような瞳は潤んで見えて、またドキリと心臓が跳ねた。けれど、今の彼にはそれを悟る余裕もないらしい。
「……キス…したいけど、駄目だな…うつす…」
寂しげに目蓋を伏せて、心底残念そうに呟く辰也くんに、少しだけ身体が固まりかける。
なんだか、本当に…弱っていて、可愛い。というか。
「本当は…昨日、連絡入れようかと思ったんだ。けど、夕方だったし…それで変になまえに気遣わせたくもなくて…」
「えっと…うん。でも、辰也くんが具合悪い時に私を気遣うのもね」
「…そうだな…うん…オレでも嫌だ」
徐々に小さくなっていく言葉尻が、彼らしくない。
身体と一緒に心も弱るものだよなぁ…と考えながら、床からベッドに座る場所を変える。俯いていく頭を伸ばした手で引き寄せれば、うつるよ、と小さく咎められたけれど。
振り払わないのが、本音だって。私は分かっているから。
「確かに、いつでもすぐに駆けつけられたりは、しないんだけどね」
首の付け根に落ちてきた頭を、髪を梳くように撫でる。
彼は弱味を表に出したがらない。常に余裕を保ちたいが余り、甘えるという行為が下手になってしまった人なんだと思う。
でも、表だけをなぞる付き合い方なんて、したいわけがなくて。
悪癖があっても好きだと思って、好かれてもいる。恋人同士、なんだから。
「つらい時は、甘えてほしいよ」
私は、私の大切な人には。
落ちた声を拾った彼の手が、おもむろに私の腰に回されるのは、数秒後のことだった。
偶然に百ミリ
「なまえが…好きだな」
ぬいぐるみか何かのように、抱き締められてそのままどれくらいの時間が過ぎたのかは判らない。
やんわりと擦りつけられる頭は上げられないまま、心臓に落とすように呟かれた言葉は、やっぱり私の胸を締め付けた。
(私も、辰也くんが好き)
(…こうやって、オレはなまえに惚れ直させられていくんだ)
(そんな、しみじみと呟くようなことじゃないと思うけど)
20131022.
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