すっかり人気のなくなった教室で、日誌にシャープペンを走らせる。
欠席者の欄で手を止め顔を上げて黒板を見れば、ちょうど消し終わったところらしかった。
「今日休んでたの誰だっけ?」
「あ? あーっと、確か盛田と清瀬だけだったはず」
「ありがとー」
黒板消しを掃除しながら答えてくれた福井に軽くお礼を言って、言われた通りの名前を書いて欄を埋めた。
後は生活態度や授業中の気付き等を書けば日直の仕事は終わりだ。戸締まりは基本的に生徒には任されていない。
さて何を書くかと悩みながらも、部活もあるし後は任せてくれていいよと掃除も終えたらしい彼に声をかけたのだけれど、別に構わないと答えた彼は私の前の席の椅子を引いて、そのままどかりと腰を下ろした。
「どーせメニューはいつもと変わんねーし、遅れは自主練で取り戻すわ」
「頑張るね」
うちの高校のバスケ部が強いことは知っているけれど、明確な意思に触れると素直に凄いなぁ、と思ってしまう。
当たり前のように努力できる人は凄い。
そっか?、と目を丸くする彼にそうだよ、と返しながら日誌を埋めて、所々詰まるところは口を出してくれる優しさに密かに頬を弛めた。
(よく見てるな…)
学級全体のこともそうだし、今も私が躓くところで然り気無くフォローを入れてくれる。
彼の広い視野やエゴイストになれない性質には、いつも憧れてしまう。
「別に…って」
「? どうかした?」
「あー、いや、唇切れたっぽい。乾燥する季節だしなー」
書き上げた日誌を閉じると同時に唐突に途切れた声に顔を上げると、渋い顔をした福井が唇を舐める。
確か唾液は逆に乾燥のもとだというのを思い出して、咄嗟に胸ポケットに手を伸ばした。
「よかったら、使う?」
この季節には手放せないリップクリームを目の前に差し出せば、またもやその目が丸くなる。
へ?、と驚く彼に私の方まで首を傾げると、一応は伸びてきた指に拐われていった。
「てか、使っていいのか?」
「? 舐めたら余計乾くし」
「ああ、まぁそーだけど」
何かおかしい?、と傾げる首の角度を増す私にそれ以上何も返さず、軽く息を吐いた彼はキャップを外す。
一瞬の戸惑いが何だったのかは判らないけれど、特に躊躇いもなくリップは唇を行き来した。
「ん、サンキュ」
そして返されたそれを受け取りながら気付く私は馬鹿なのかもしれない。
よく考えたら新品でもないリップは、当然私が使っていたものだった。
「ご、ごめん福井」
「は? 何が?」
「いや、もしかして不快だったのかなって…」
今更間接キスなんて気にする歳でもないけれど、直前のやり取りを思うとそこを気にしたとしか考えられない。
もしかしたら福井はそういうのを気にする質なのかもしれない。
だったら申し訳ないことをしたな…と受け取ったリップを握り締めると、いやいやいや、と突っ込まれた。
今時気にするわけねーべ、と。
あ、やっぱりそうだよね。よかった。
「でも、そしたら何で?」
確かに戸惑っていた気がするけど…。
疑問の晴れない私が瞬きを繰り返せば、あー、と軽い唸りを上げながら逸らされた視線が頬杖をつきながらもう一度向けられた。
「逆」
「逆?」
「みょうじが気にするかと思ったんだよ」
真っ直ぐに見つめられて、一瞬どきりと鳴いた心臓を意識してしまう。
何故か、間接キスなんかよりも覗き込んでくる瞳の所為でじわじわと込み上げてくる羞恥心に俯いた。
「別に、気にしないよ…福井だし」
「どっちの意味で」
「ど、どっちかな…」
恥ずかしい。ひたすら恥ずかしい。
このやり取りはバレた、と思った瞬間、伸びてきた指に顎をすくわれた。
「え、ちょ…」
「どっちでもいいならいいようにとるけど」
「あ、うん、じゃあそれで…」
構わないから離してくれると嬉しいなぁ、なんて思った矢先に唇に感じた柔らかさに、完全に時間が止まった。
「んじゃ、日誌出してくるわ」
「…………はっ!?」
え、今…え!?
鞄と日誌を手に立ち上がった彼が教室を出ていく頃に漸く時間を取り戻した私が口を覆えば、振り返ったその顔は僅かに口角を上げていて。
「乾燥したら困るだろ」
してやったり、と笑う彼に何を返していいかも判らず、私は呆然と彼が去った扉を見つめることしかできなかった。
蜂蜜Darling
これはそういうことだと、受け取ってもいいのですか。
20121119.
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