彼との時間を重ねていく上で新しく見えてきた性質や性格、癖のようなものは、数えきれないほど存在する。
その中でも不安定な周期でやって来るのが、何事にもマイペースで細かいことを気にしないタイプであるはずの紫原くんには珍しい、ネガティブデーというやつで。
大抵、朝に顔を合わせた時にその到来に気付かされることの多い私は、いつにも増して生気の抜けきった彼に今日も意識を引っぱられっぱなしだ。
朝練後、自分のクラスへ向かいながら。
授業中、板書をノートに写しつつも注意点等を聞き逃してしまいながら。
休み時間、友人と会話をしながらも。
今にも崩れてしまいそうなほど弱々しい表情でおはよう、と挨拶をしてきた朝の彼が、頭の中をぐるぐると巡る。
我ながら、重症だと思う。
けれど好きな人には笑っていてほしいし、辛いことがあるのなら和らげてあげたいと思うのも、至極当然の思考なわけで。
「紫原くん…お菓子は食べないの?」
漸く纏まった時間のとれる昼休みがやって来たから、普段通り昼食をとった後は二人きりで過ごそうと、今日は屋上までやってきた。
強い日差しの中わざわざ外で過ごすような人間も少ない。それでも日陰は案外と涼しい空気を保っているもので、二人前後で並ぶように座り込んだまま、私は訊ねた。
口数の少なくなった紫原くんは私の頭のてっぺんに頬を乗せたまま、気の抜けた返事を返す。
彼の食欲やお菓子への執着を考えれば、あり得ないような答えを。
「んー…いらない…」
そう言って、より一層擦り寄ろうとするかのようにしっかりと抱き込まれる。まるでぬいぐるみ状態であることもあって、羞恥心よりも心配する気持ちが勝った。
(嫌な夢でも見たのかな)
彼にとってはよくあること。夢が願望の現れというのは、出鱈目に違いない。
私の関わるものじゃないといい…と願っても、今までの経験上、その可能性が一番高いこともよく知っていた。
紫原くんは、ある意味とても繊細な人だから。小さな負の感情にも敏感に反応してしまう。
少しでも慰めになればと伸ばした手で高い位置にある頭を撫でれば、はぁ、と吐き出される溜息を感じた。
「なまえちんは…いなくなんないよね」
「そんな夢見たの?」
「うん…でもいなくなるだけなら、まだマシかも…」
「いなくなるっていうのが、どういうことを指すのか判らないけど…私は紫原くんから離れたいなんて思わないよ?」
一体、夢の中の私は何度彼を傷付ければ気が済むのだか。
紫原くんの奥底に残る罪悪感の所為だと察しても、もどかしくて堪らない。
ごめんね、と。何も悪いことなんてしていないのに、彼は謝るから。
「でも、放してあげた方がいいのかもなって、思った」
「…どうして?」
よくあることとは言え、ここまで落ち込むことは初めてのような気がする。
まるで別れ話にでもなだれ込みそうなテンションに若干焦燥感を覚えつつも、私が慌てるわけにもいかない。
なんとか深呼吸で胸を落ち着かせながら訊ねた私に、返される声は悲しみに沈んでいた。
「なまえちん、オレの所為で、死んじゃった」
震えた手と、声。
その内容まで聞き取って、私は一瞬瞠った目を強く目蓋を下ろして閉じる。
ああ、やっぱり。
夢は願望の現れなんて、大嘘だ。
「オレが、守らなかったから。守れたはずなのにそうしなかったから。死んじゃったの。ほんと、やな夢」
「…紫原くん」
「放してあげればよかった…あんな、口に出せないくらい酷いことばっかして、それで死ぬなら…オレの方が」
「怒るよ」
続く言葉を予想するのは容易くて、それでも聞きたくないから覆い被せる。
馬鹿なことを言わないで。ただの夢なのに、傷付けないで。
「夢だよ。紫原くんは、ちゃんと私を守ってくれる」
「…酷いこと、したのは同じじゃん」
「それは、そうかもしれないけど、過程も結果も違うんだから…同じことなんて起こらない」
「時代とか、立場とか…違ったら、同じだったかもしんないよ」
「でも、違うから。ちゃんと区別できるよ」
酷い夢だと思う。よりにもよって私が死ぬなんて、とんでもないものだ。
どんな状況でそうなったのかは知らないけれど、もしかしたら、と思った。
私を守ろうとしなかったという夢の中の彼は、以前の…私を疎んでいた頃の、彼だったのかもしれない。
抱き締められた腕の中で、ぎこちなくも身体を反転させる。
そうして見上げた彼の顔は泣き出しそうなくらいぐしゃりと歪んでいて、私の心臓までそんな音を立てて潰れた気がした。
いつも、この人は私の為に傷付いてしまう。
謝るべき側がどちらなのか、判らなくなるくらいに。
(私が傍にいて、大事にしたい人なのに)
あなたがあなたを、傷付けないでほしい。
「今、私が同じような目に遭いそうになっても、紫原くんは何もしないの?」
答えなんて分かりきっている問い掛けを紡ぐ。私は答えを疑いもしない。
現実で、彼が私を意図的に守らないことはないし、本当に離れることもできるはずがないと知っていて。
分かっているから、狡い問いだった。
それでも、私は狡くても赦される。そのこともちゃんと分かっていた。
「するよっ…何だって、する。絶対、どんなことでも」
だって、好きだよ。誰より、大事だから。
必死に紡ぎだされる言葉と共に、落ちてきた頭が首もとに埋まる。
不安を消すように、羽が触れるように首筋に感じた唇に、高揚するよりも呼吸が深まった。
「うん。じゃあやっぱり、ただの夢だね」
頬を擽る髪に手を差し入れて、梳くように撫でる。
大丈夫だから離れない、その気持ちが伝わるように。
だって紫原くんはこんなにも、私に優しいのだから。
「私は、大事にされてるもの」
しっとりと吸い付く唇から、今更棘は刺さらない。
首筋にキスを、唇にアイを
オレはもう、壊さないから。
そんな小さな囁きを拾って、大きな肩に腕を回した。
20130824.
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