一番最初にふと思い浮かんだ単語は、“手”だった。

何を考えている最中に思い浮かべた単語だったかは覚えていない。授業中であったかもしれないし、部活動に勤しんでいる時だったかもしれない。若しくは家にいる時に思い浮かべたのか。定かではないが、日常的に目にして使用するその部位を特に意識して過ごすことは少ない。
だからこそ何の違和感もなくするりと、胸の内に滑り込んだそれに気付かなかったのかもしれない。ただ、思い浮かべた一文字が何故か頭の隅に引っかかっている状態だった。

言い様のないもどかしさを感じながら、日々を過ごしていた。そんな中で滑り込んだ“それ”がやはり取り留めもない日常生活に現れ始めたのは、必然だったのか。



「あ…?」

「どうした花宮」

「…いや。何でもねぇよ」



ひらりと、窓の外に揺れる白い影を見た。
三階の窓の外から、此方に合図を送るように揺れる小さな白い、手を。

ベランダに出た生徒がふざけているのかと思ったが、一瞬でその可能性は消える。足場のある窓は逆側で、その影の映る窓の外に人の居座れる部分はなかったはずだった。
そしてその手の大きさも、高校生のものとすると些か小さい。近くで確認したわけではないが、女子でもここまで幼い手をした人間はいないだろうと結論づけるのは早かった。

つまりは。



(くだらねぇ)



怪奇現象、と口に出してしまえば何とも面白味がないものだと。
恐怖どころか呆れ混じりに、思ってしまった。
結局のところ、実害がなければ多少気味の悪いものを見たところで気にせずにいられたということだ。

その日から、ことある事にその手は現れた。
青白くほっそりとした、恐らくは子供のものであろう手。窓ガラス越しに現れたそれは次に教卓の上に彫刻のように佇み、次には通り過ぎる階段の手摺りを掴んでいたり、掃除用具入れの中から転がり出てきたり、廊下等の角を曲がる時に制服の裾を掴んで引き留めたりと、徐々に距離を縮め始めた。
これには若干警戒したが、まだ実害と呼べる範囲には至っていなかった。
その認識が正しいのか、判断基準もなければ手の打ちようも思いつかなかったとも言えるが。

日常が“手”によって浸食されてゆく。そんな感覚を犇々と感じて過ごしていた。
しかしある日突然、それまで日常を荒らしていた小さな青白い手は、ぱったりと姿を消した。



「“手”」

「っ…あ?」

「手、止まってるよ花宮くん」

「…ああ、少しぼうっとしてたみたいだね。ありがとう」

「いえいえ。花宮くんでもぼうっとすることあるんだね」



数学の小テストの丸付けの最中、止まっていた赤インクのペンを指摘されて丸付けを再開する。話し掛けてきたのは隣の席に座る女子生徒で、今手元にあるプリントの解答者だった。
くすりと、一瞬だけ笑うその女の名前はみょうじなまえ。どこか浮世離れした雰囲気を纏い、特定の友人がいないのかいつも一人きりで行動する生徒だった。

いつか、耳にしたことがある。
みょうじなまえは見えざるものが見える人間だ、と誰かが噂していたのを。
何とも馬鹿馬鹿しい噂話だと、それを聞いた瞬間には鼻で笑ったものだが、数々の怪異に触れて思考が麻痺したのか今はその真偽が気にかかった。

もし、噂話が真実なら。



「それはまぁ、オレも人間だから」



あの、今までことあるごとに視界に入ってきていた“手”の行き場も、この女は知っているのだろうかと。
最早学生生活中はお決まりの人当たりのいい笑みを貼り付けながら、内心ではそんなことを思う。



(馬鹿馬鹿しい)



消えたものを気にして何になる。実害も少なくすんで、これ以上考える必要なんてないだろう。

そう、思っていた。
不自然に手の内から転がり落ちるペンを見るまでは。
ドリブル中のボールが見当外れな方向に弾かれるまでは。
施錠した扉を何故か再び開けようとする自分の手に、気付くまでは。

見えない代わりに、脳信号を正確に受け取らなくなった右手。それは恰も、こちらをおちょくるように姿を現していたあの白い手のようで。
身体の一部だけを乗っ取られてしまう、感覚。その怪異は今度は時間をかけず、一日にも満たない時間でこの身を占領した。



「う…ぜぇ…」



掴もうとしたものを、弾き飛ばす。押そうとしたものを、引いてしまう。左手でその動きを抑制しようとすれば、激しく抵抗する右手がそれを傷付ける。
抗えば抗うほど右手の力も増す。埒が明かない。思うように動かなくなる自分の身体に、頭がおかしくなりそうだった。

そうして文字を書くどころか、ペンさえ握れなくなった右手。日常生活を壊していくそれに眩暈を起こして、限界を感じ始めた頃。
胸ぐらに掴みかかってきた自分の右手に危機を感じた頃、その女は現れた。



「何してるの、花宮くん」



放課後の、日も暮れて薄暗くなった校舎内の廊下。体育館の鍵を返した帰り道、部活中も思うように動かなかった右手に壁に叩きつけられた、その時に。
この場にいるのが当たり前のようにひょっこりと現れた生徒、みょうじなまえは不自然な此方の体勢を見てにこりと笑った。



「楽しそうだねぇ」

「な、にを…」

「首を掴まれたら終わりだけど」



とん、と人差し指で自らの首を示して、笑う。
状況が状況だからか、見慣れたクラスメイトの顔が何か、得体の知れない化け物のように見えた。



「時に花宮くん、君…子供好きなの?」



ぞわり、背中に走った寒気に咄嗟に唇を噛み締めた。
自分の手に胸ぐらを掴まれた男子生徒。そこに子供というイメージに至る要素はない。
細く小さな青白い手を、見てきた自分にしか至れない思考に、何かを飛び越えて追い付いてきたその女が信じられなかった。



「てめぇ…マジで」

「うん?」

「見えるんなら、助けろ」

「…遊んでるんじゃないの?」

「この状況のどこが遊びなんだよ!」



心底不思議そうに首を傾けたみょうじは、何かを考え込むように数秒黙り込むと無言で近付き、制服を強く握りしめた右手に触れてくる。
それを拒むように標的を変えたそれは、今度は細い女子の手首を握り締める。



「残念。君、嫌われちゃったみたいよ」



緊迫した空気は、一瞬で霧散した。
一体どうするのかと見下ろした先、ぎりぎりと掴まれている左手首を気にもしないように、掴む右手を見据えて呟かれた瞬間に。

右肩から指先にかけて、何かに突き放されるかのように急に軽くなる。バランスを崩しかける身体を咄嗟に両足で支える中、女の視線が何もない宙をさ迷うのが見えた。



「酷いなぁ、遊んであげればいいのに。とっても楽しそうだったんだよ?」



泣いちゃった、と肩を竦める。
得体の知れない“手”よりも、平然としている目の前の女が信じられなかった。

こいつは、どんな神経をしている。
自分を棚に上げて何を言うのかと、思われるかもしれない。が、確かにこいつは口にしたのだ。

首を絞められれば、終わりだと。



「害がないと、言いきれんのかよ」



冗談なのか。ただの遊びなのか。本当に? 誰がそれを証明できる?
できるとすれば目の前の存在だけだが、取り繕う暇もなく溢れ出た疑問に、その女は再び首を傾げた。
さぁ?、と、欠片も気に留めない様子で。



「子供は純粋で利己的だからねぇ…恨み辛みで引きずり込む大人よりも厄介だよね。悪意なんてないんだもん」

「大好きだから、離れたくない。お気に入りだから、一緒にいるの」



見えてしまえば、拒否感を持たなければ、勘違いして好かれてしまう。
だからこの子は君が好き。自分を恐がらなかった君が、お気に入り。



「全部、ただの遊びなのよ」



ぞっとするほど綺麗な笑みを浮かべた、クラスメイトであるはずの女。
闇に溶けるように佇む女の制服の裾を、縋るように掴む白い手が、見えた。







拝啓、蜘蛛が嫌いだった君




恐れられないのが、運の尽き。





ホラー要素のアイデアは中井拓志のゴースタイズ・ゲート「イナイイナイの左腕」事件から。

20130616. 

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