「もっと頑張らなきゃ、ダメなんだって」
小さな楽器ケースを抱き締めながらぽつりとそう溢した、幼馴染みの目の縁には今にも溢れ落ちそうなほどの涙がゆらゆらと揺れていた。
「なまえは…ちゃんと、頑張っているのだよ」
「でもまだ足りないの」
「…何で」
悔しげに唇を噛み締める、彼女の痛みが解らなかった。
どうしてそんなことを言うのかと、本気でわけが分からなかった。
なまえは音楽が好きだった。それこそ、親の勧めでピアノを弾き始めたオレなんかよりも、ずっと純粋に音楽を、奏でる楽器を愛していた。
必死に努力する彼女の姿をそれまでずっと目にしてきて、だからこそその言葉が理解できなかった。
だって、お前はちゃんと頑張っているじゃないか、と。
「でも、頑張って、うまくいくかなぁ」
凡そ子供には似合わない疑問を抱いた彼女は、ある部分オレよりもずっと大人だったのかもしれない。
大人の諦めを、感じ取れる程度には。
その時はまだ何も解っていなかった。
ケースに食い込む幼い指先が、血の気を失い白くなってしまっていることも。気付いても、理解できなかった。理解できても、どうしようもなかっただろう。
明確な壁が、存在したのだ。
オレと彼女の間には、才能の有無という埋められない溝が、最初から。
できることなど何一つなかった。大概の努力を実らせられるオレの存在が余計に彼女に重圧を与えていることは、成長するにつれて自然と気付き、理解してしまった。
だから、どうしようもなかったのだ。
現実に打ちのめされていく彼女を、遠い場所から眺めることしかできない。我慢ならなくなって手を伸ばしたところで、本質から理解なんてできるはずがない。
理解しようとする方が嫌味だろう。実際彼女はできる限りオレを視界に入れないよう、関わりを避けた。
それでもよかった。何でもいい。諦めずにいてくれれば、それでいい。
諦めてしまえば二度と立ち上がれないだろう。それくらいは音楽に入れ込んでいる彼女を、ある種尊敬すらしていたのかもしれない。
それでも、本音なんて単純なものだ。
実らない努力などないと思いたい。教えてやりたい。諦める必要はないのだと。
それができるのは自分だけだと、思い込んだ。理由よりも重い信念を持った。
「真太郎でも、負けるんだね」
いつから観ていたのか、試合終了後に頭を冷やしている最中。外のベンチに腰掛けて冷たい空気を吸っていた、オレの頭部にこつりと熱が押し付けられる。
「観に来ていたのか」
「暇だったからね」
お疲れ、と差し出されたおしるこ缶に、言葉にならない息が漏れる。
最高の努力を尽くし、それでも届かない悔しさを、オレよりも昔からよく知る幼馴染みに、どんな言葉を口にすればいいのか判らない。
無言で受け取った缶で冷えきった手を温めると、こちらの無反応を気にするでもなく、彼女は隣のスペースにどさりと腰を下ろす。
「こんなとこ居続けたら風邪引くよ」
「…解っているのだよ」
「敗けが辛いのは解るけどさ」
お前に何が解る。などという言葉は吐き出せなかった。
確かに彼女は幾度も同じ類いの辛さを味わい続けてきたのだ。
胸が張り裂けそうな絶望感と、込み上げる虚無感は決して楽に片付けられるものではない。
敗北は辛い。一度でも、二度でも変わらない。寧ろ力を尽くした自覚があるだけ、痛みは増していく。
「すまない」
「は?…何が」
「オレは勝たなければならなかった」
握り締めた缶の熱が、掌を焼く。
過るのは、ベストを尽くした仲間の姿と、いつかの幼馴染みの泣き顔だった。
(勝ちたかった)
終わってしまった試合を、巻き戻せたとしても意味はない。
それでもあの仲間と、勝ちたかった。無駄な努力はないのだと、目の前の存在に見せたかった。
奥歯を噛み締めるオレの耳に、彼女の溜息が響く。
「真太郎は馬鹿野郎」
「っ! なっ…聞き捨てならないのだよ!」
「正直確かに、真太郎でも無理なことがあるんだったら、私がうまくいかないのは当たり前かなーって思ったよ。だけど違うでしょ。私にも誰にも謝ることじゃない」
そうじゃない、と呟いた彼女は、やはり大人びていた。
オレよりも多くの痛みを血を吐く思いで越えてきた彼女は。
「努力すれば何でも叶うほど優しい世界じゃない。理不尽なことなんていくらでもある。そんなこと私はとっくに知ってるし、それでもあんたは諦めさせてくれなかったんだよ」
「……なまえ」
「そういうことでしょ。あんたは諦めたの? 私に言ったことを、自分は守らなかったの? 違うよね。私は何も裏切られてない。諦めてたなら私は今此処にいないし、おしるこなんか奢ってないわ馬鹿野郎」
「…オレが諦めるわけには、いかないのだよ」
「解ってんじゃない」
ふん、と隣で鼻を鳴らした幼馴染みの吐き出した感情論は、じわりと芯に染み渡る。
そうだ。諦めてはいけない。諦めてはいない。今まで彼女を奮い立たせ続けたのに、それを全否定するようなことだけは絶対にできない。
才能の差で全ての努力が無に帰すなど、認めてはいけない。認めたくもない。
自分の為にも彼女の為にも、倒れたまま立ち上がらないという選択肢はなかった。
「でもまぁ、私とあんたの事情は違うし、思うところが多いのも何となく解るけどね」
自分の分の缶コーヒーのタブを引き、一口分傾けてから再度視線を寄越した幼馴染みは、何時ぶりか判らない微かな笑みを浮かべていた。
「敗北慣れしてない可哀想な幼馴染みに、数分くらいは胸を貸してやってもいいよ」
ほつれた糸ごと抱きしめて
どうか誰よりも報われて欲しい。
そう願った日に涙を堪えていた少女は今、報われない世界でも笑っていた。
20130528.
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