「どうしよう…」
よく晴れた秋の空に、開けた窓からは心地よい風が吹き込んでくる。そんな思わずまったりしてしまいそうな穏やかな気候の中、私は目の前の机に置かれた文庫本、それに挟まれた栞と付属する付箋を見下ろしながら項垂れていた。
こんなに天気がいい日なのに、私の心は雨模様だ。
「なぁに暗い顔しちゃってんの」
「歩ちゃん…返事が書けないの…」
「は? 返事って…ああ、黒子くんに?」
また何で、と目を丸くしながら机の上を覗きこんできた友人に、力なく頷き返す。
付箋でのやり取りは相変わらず続いていて、今回も彼から貸してもらった本の感想と、ちょっとした身の回りの話なんかを書こうと思っていたのだけれど。
ちょうど私の方も彼に本を貸している最中だったのが禍して、一つ前のやり取りで何の話をしていたのかすっかり忘れてしまったのだ。
彼が貸してくれた本は中々内容が濃かったから、余計に頭の中からそれ以外の記憶を掘り起こせない。
普段ならやり取りの流れも今までの付箋を見れば軽くは分かるはずなのだけれど、ここ最近少し忙しくて整理できていない付箋の順番が、自分では判らなくなってしまっていた。
「…何だのろけか」
「!? ち、違っ…本当に困ってるの!」
「いや、そんなん悩む間もなく聞けばいいじゃん本人に」
「だって、気を悪くさせたりとか…」
「ないでしょ。黒子くんそんな心狭くなさそうだし」
「う…それは、まぁ…」
そう、なんだけど…。
テツヤくんは気にしないかもしれないとは思うけど、申し訳ないというか。
忘れるくらい軽いやり取りのようには思われたくないというか。
もごもごと口の中で呟くも、それで記憶が戻るわけでもない。
本は返さなくちゃいけないし、感想だって伝えたい。そうなればやり取りの内容を忘れてしまったことは自ずとバレる。
誤魔化すために新しい話題を振るという手もないではないけれど、そんなずるいやり方はできればしたくなかった。
(だったら素直に忘れちゃったって言った方がいいよね…)
問題は、それをどう書くか。もしくは口頭で伝えて謝るか。
シャープペンを握りしめたまま付箋を睨む私に、そんな気合い入れなくても、と呆れる友人に首を横に振る。
そんな、簡単なものじゃないのだ。私にとって、簡単にしたくないものだから。
「まずは感想…からの謝罪が流れ的にはいいよね」
「…なまえって真面目よねぇ」
「真面目っていうか…不真面目になりたくないだけだけど」
あとは、仲良くしてくれる人達の中の私の像を裏切りたくないという強がりもある。
特にテツヤくんには幻滅されたくないなぁ…と眉を下げながらペンを走らせ始めたところで、遠い場所にいるクラスメイトから名前を呼ばれた。
「みょうじさーん、何か用事だってー」
「え?…っ!」
その声に促されて扉の方へ目をやれば、今まさに頭に浮かべていた彼が立っていた。
思わず息を止めて固まる私の隣で、同じように振り向いた歩ちゃんは面白そうに口角を上げる。
「わーお、ナイスタイミングじゃん」
どっちかというとバッドタイミングだよ…!
心を決めたとはいえ、こんなすぐに顔を合わせるなんて予想外だ。込み上げる焦りにどうしようかと視線をさ迷わせていると、にやにやと笑う友人に腕を引かれて立ち上がらせられた。
「あ、歩ちゃ…」
「ま、とりあえず用事があるなら無視はできないっしょ」
「そ、そりゃそうだけど、まだ心の準備がっ」
「いってらー」
どん、と強く背中を押されてつんのめる。寸前で堪えきれたことは堪えきれたけれど、乱暴な友人に文句を言う前に近付いてしまった彼の方に意識を奪われた。
「大丈夫ですか?」
「! あ、うんっ! 大丈夫…です」
少しだけ身を屈めて、心配そうに話し掛けてくるテツヤくんに肩が跳ねそうになる。
ギリギリで動揺を隠しながら笑顔を返すと、ならいいんですけど、とこちらもふわりとした微笑を返された。
そのいつもと変わらない空気に、少しだけ苦しくなっていた胸が楽になる。
「教室とはいえ怪我しない保証はありませんから、気を付けてくださいね」
「それは…歩ちゃんに言ってほしいかな」
「それもそうですね。…でもなまえさん、何かありましたか?」
「え」
いつも通り、まずは彼の穏やかな会話に乗っかろうとしていたところで、僅かな鋭さを持つ疑問を投げ掛けられて再び身体が固まる。
そんな私の反応を見下ろしていたテツヤくんは、軽く眉を寄せた。
「やっぱり、少しおかしいですね…」
「お、おかしい?」
「さっき、振り向いた時も表情が硬かったですし。…もしかして、ボクが何かしましたか?」
「え、ちっ違うよ? テツヤくんじゃなくて私がっ…あ」
ぱ、と掌を口に当てたところで、出てしまった言葉は帰ってこない。
「なまえさんが?」
「あ…う…ええっと…」
不思議そうに真っ直ぐに見つめられて、後退りたくなった。
に、逃げられない…。逃げちゃいけないんだけど…。
普段ならちゃんと目を合わせて会話を繋げられるのに、気まずさに視線を落としてしまう。
これは確かに、おかしいと思われても仕方がない。
自分の態度の悪さに更に落ち込みそうになっていると、スカートの近くで拳を作っていた手が持ち上げられた。
「大丈夫ですよ、なまえさん。何かあったなら言ってください」
「……うん…」
不安を消そうとするように、私の拳を彼の掌が包み込む。あやすようにゆっくりと揺られる手に、胸の奥がぎゅっと絞られた気がした。
やっぱり、テツヤくんは優しい。
小さなことで怯える私なのに、いつだって気付いて大丈夫だと、手を引いてくれるのはテツヤくんだ。
「あの…ね、謝らなくちゃいけないことが、あって」
「…ボクにですか?」
「うん…その、付箋のことなんだけど…」
息を吸い込んで、今度こそと見上げた彼は、軽く首を傾げて私を見返してくる。
その瞳には嫌悪も気怠さも欠片も見当たらないから、掌の熱をどこまでも信じこむことができた。
すれ違いレター
どんな小さなことで躓いても、笑ったりしないで。弱い私にそっと手を差し伸べてくれる彼が、簡単に振り払ったりするわけがないと。
概ね事情を話し終えた私に返ってきたのは、想像を裏切らない柔らかな笑顔で。
「なまえさんに嫌な思いをさせたわけじゃなくて、よかったです」
そう言ってくれる彼に漸く安堵の溜息を漏らせば、それまで握られていた手は離れていく。
そのあとに自然な動作で頭を撫でられて、安心しつつもとくとくと、速まる心音を感じた。
(…テツヤくんに嫌な思いさせなくて、よかった)
(大丈夫ですよ。なまえさんに嫌な思いをさせられることなんてないですから)
(私も…テツヤくんには、絶対ないよ)
(お揃い、ですか)
(うん…お揃い、ね)
20130523.
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