※未来設定
時計の針を確認しながら料理を装い、片付けられたテーブルの上に運び並べる。
慣れた作業に戸惑うこともなく、整った食卓に一つ頷いて息を吐いた。
「こんなもの、だよね」
うん。いつも通り、問題はない。
料理に関しては失敗しないと思うし、味見もしっかりしてある。あとは彼の帰宅を待つばかりだ。
汚れた調理器具は片手間に洗って伏せてあるから、今片付けるものは特にない。
それなりに慣れ親しんだ部屋ではあれど、自分の部屋でもない場所であれこれと何かに手を付けることは躊躇われて、一先ずは定位置の椅子に腰を下ろした。
再び壁に掛けられた時計に目をやれば、予定時刻まではあと五分程度時間が余っている。
自分だけしかいない空間で動きを止めると、身体の中にまで静寂が染み込むような感覚に包まれる。
それでも居心地の悪さを感じないのは、偏に彼の気配が色濃く残っているからなのだろう。
この部屋の持ち主は、私じゃない。けれど、私の大切な人だから。
「まだかなぁ…」
テツヤくん。
ぽつり、呟いた声が空気に溶けて消えてしまう頃には、私はテーブルに組んだ自分の腕に突っ伏していた。
あと数分。数分待てば会えると解っているのに、どうしても逸る気持ちには自分でも呆れてしまう。
もう短くない付き合いなのに、学生だった頃から変わらない想いを抱いていることに、未だに恥ずかしさが込み上げて。
本当に私は、どこまで彼が好きなのか。
(ああ、もう…)
恥ずかしい、本当に。恥ずかしいったらない。
こんなに、いつまでも浮かれているなんて。誰かに見られたらきっと笑われてしまう。
せめて彼が帰ってくる前にこの顔の熱を何とかしなければと、伏せていた顔を持ち上げて掌を頬にあてた。
水仕事を終えて冷たかった指にじんわりと移る熱。けれどそれが移りきる前に、廊下の先から聞こえた物音に肩を跳ねさせることになる。
「ただいま」
「おっ、お帰り、なさい」
足音が近付いて、帰宅を告げる声と共に室内に踏み入ってきた彼に、私は慌てて立ち上がった。
危うく椅子を倒しそうになって焦ったけれど、仕方ない。主人の留守の部屋で、例え親しき仲とは言え、寛ぎ過ぎるわけにはいかない。
そんな私の反応が面白かったのか、くすりと笑いながらもう一度ただいま、と返される。
いつまで経ってもそんなやり取りには慣れられなくて、きゅう、と縮こまる心臓にまたもや顔に熱が集まりそうになった。
「待たせてしまいましたか」
「あ、ううん。さっき出来上がったところだから大丈夫。すぐにご飯装うね」
「はい、お願いします」
整った食卓に視線をやって軽く首を傾げた彼からの問い掛けには首を横に振って、再びキッチンへと向かう。
特に予定時刻を過ぎたわけでもないのに、気にするような言葉を掛けてくれる。そんな小さなことにも優しさを感じるから、私は彼の為なら何でもしてあげたくなるのだ。
ふわふわと浮き上がる気持ちを自覚しながら、幸せだなぁ、なんて内心で呟きつつお揃いの茶碗にご飯を装い、二人分の吸い物も注いでテーブルへと運ぶ。
満足のいく料理と、静かな部屋。優しい空気に、好きな人。
これだけあれば、他に望むものなんてないかもしれない。そんなことを考える私は単純だろうか。
(でも、簡単に手に入るものでもない)
誰もがこんなに穏やかな時間を知っているわけではない。そのことも私は知っている。
「いつもありがとうございます。なまえさんのお陰で美味しいご飯に有り付けます」
「どういたしまして。でも、私も好きでやってることだからね」
荷物を部屋の隅に置いて、定位置に腰掛けながら彼の紡ぎ出す言葉には笑顔を返す。
学生である期間を終えて、就職すれば仕事に時間を追われることも多くなって。
それでもテツヤくんと過ごせる時間が欲しくて、食費の節約、折半を言い訳にして居られる限りは彼の部屋に入り浸っている。
そんなちょっとした狡い考えもあることは、彼も承知の上だろうに。
「それでも、仕事から帰って夕飯の仕度をするのは大変ですよ。無理をさせていないかと、たまに心配になります」
「無理なんて…」
「ボクの帰りに合わせなくても、手伝えることは手伝いますよ」
私以上に長い時間働いているのに、当たり前のようにそんな言葉を口にできる彼は、本当に変わらず優しい人だと思う。
先程まで座っていた席に腰を下ろし、真正面に向かい合うテツヤくんにありがとう、と返せば小さな溜息が返ってきた。
「変える気はない、と」
「だって、テツヤくんがお腹空かせて帰ってきたら、すぐにご飯食べさせてあげたいから…気持ちだけいただいておくね」
「仕様が無いですね…それならなまえさんの気持ちは汲んで、休日はできる限り手伝うことにします」
「う、ん…?」
頷きかけて、留まる。
休日、と出された単語に違和感を抱いて。
(今週は…)
確か、テツヤくんの方には用事があったはずだ。中学高校の友人達と久々に集まるとかで、夕飯を共にする約束はない。
なら、広く普段の行動を指しての台詞だったのか。でも、今更そんなことを口に出さなくても彼に時間の余裕がある時には、いつだって進んで手伝ってくれている。
言葉の真意を量りかねて目を瞬かせながら彼を見つめなおすと、箸を手に取ることすらせずに微笑む柔らかな瞳とぶつかった。
どきりと、小さく心臓が跳ねる。
「テツヤくん…?」
「色々、考えたんですけど」
「う、うん?」
何だか…何だろう。
急に、静か過ぎる空気が気になり始める。時計の秒針の立てる音、小さな衣擦れの音が空気を揺らすような気がして、身動きがとれない。
テーブルの上に置いたまま固まる手に、皮膚の硬い男性のそれが重なって、身体の中に痺れが走った。
「ボク達らしいのが、いいですよね」
じわりと手先から侵食してくる熱に、何故か呼吸が浅くなる。
おかしい。このくらいの接触なら、慣れているはずなのに。
どうしてこんなに、鼓動が速まっていくの。
「毎日、こうして何気ないことに、幸せを感じていきたい」
「テツヤくん…」
「貴女といると、いつも…強く、長く、そんなことを思うんです。だから」
一度、思いきるように瞑られた目蓋はすぐに持ち上がって、強い意志を秘めた透き通った瞳が私を射てくる。
どくどくと、血管の中で血が暴れている。視界が歪むようにぼやけていった。
「ボクが家に帰ったら、お帰りと…言ってくれませんか」
不自由な視界で、彼の顔はよく見えない。けれどその声は、優しさの中に芯のある硬さを孕んだその声音は、しっかりと私の胸に刻み込まれた。
「……それ、って…」
私が居ることが前提の、頼み事だった。
まるで私が、ここに。彼の居場所にいつも存在しているような。
柔く包まれていた手に、ぐ、と力が込められる。
慣れ親しんだ彼の手が、力強く感じられて。
「ボクを幸せにしてください。そして、ボクにもなまえさんを幸せにする努力を、させてください」
「わ…わた、し…」
「頷いて」
「っ…」
こんなことが、あってもいいのだろうか。
こんなに幸せなことを、私が味わっても。手に入れても。
苦しいくらいに胸の中は幸福に占領されて、言葉が出てこない。
涙腺は一気に決壊して、脳内はめちゃくちゃだ。
ずっと、それこそ出会い頭から私に優しかったテツヤくんと、友人として仲良くなった。
そうして関わりを深めていく内に、いつの間にか彼に恋をしていた。
緩やかな歩みでも想いを交わして、恋人にもなっていって。それからも、小さな壁にぶつかりながらも、二人でここまで寄り添って。
込み上げる思い出は、甘いことばかりでもない。
それでも。
(それでも、私は幸せ)
今幸せな私が、これから先潰れてしまうことはない。
一緒に歩んでくれる。幸せになろうとしてくれる、彼の隣に居られるのなら。
「なまえさん」
「っ…はい…!」
濡れた頬に伸ばされた指先が、涙を掬いとっていく。
知らぬ間に席を立っていた彼の額が、こつりと私のそこにぶつかった。
そして緩やかに溢れだす
「い、いっしょに…幸せ、にっ…なりたいです…!」
必死に喉奥から絞り出した答えは、不恰好だったけれど。
これ以上ないくらい、柔らかく相好を崩した彼を、同じ気持ちにしてあげられたなら。
それならば一本の指に走る冷たい圧迫感を、私は躊躇いなく幸せと呼べるから。
陰る視界。狭まる空気に、そっと涙に濡れた瞳を閉じた。
20130429.
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