「君に勧む金屈巵…満酌辞するを須いず」
照り付ける太陽に背を向けてさあさあと細かな水飛沫を撒き散らす。
夏が終わったと言えど中々去らない暑さに辟易するも、この時間だけは茹だるような暑さのお陰で引き立てられた。
冷たい水で手先から肘付近まで濡らせば、ひんやりとした心地好さが込み上げる。いっそのこと頭から被ってしまいたい衝動にも駆られるが、それをなんとか堪えながら作業を進めていた。
「花發けば風雨多く…人生別離足る、だっけ」
ぼうっとしたまま呟いた言葉に、特に意味はなかった。
理性の箍が外れないよう小難しいものを思い浮かべようとした時、一番すぐに思い浮かんだものだから口にした。それだけで。
思い入れがあるわけでもない古い時代の異国の詩でも、頭に残っているものだな…と息を吐いた時、喧しくはない程度に溌剌とした男の声が背後から響いた。
「おっ、みょうじ。気持ち良さそうだなー水やり!」
「……誰」
「忘れたのか!?」
振り向けばわりとすぐ傍まで来ていたらしい。衝撃を受けた表情で固まった随分と背丈のある男子生徒は、それでもまたすぐに気を取り直すと忘れたものは仕方ないな、と頷いた。
「このー木なんの木気になる木ー、の木に」
「そういうの、いいや」
「人の自己紹介は最後まで聞くもんだぞ?」
「別にいらないでしょ」
仲良くなる予定のない人間からの自己紹介なんて。
最後まで口にすることはなかったが、私の言い種に何か感じるところでもあったのか、男子生徒はまだ水を撒き終わっていない花壇の角に腰掛けた。
さぁ今から話をするぞと言わんばかりの態勢に、眉を顰めたのは私の方だ。そんな場所に居られたら、いつまでも仕事が終えられない。
「みょうじは相変わらず仕事熱心だし、一人でいるんだなぁ。寂しくないか?」
「別に」
「でもなぁ、友達や仲間と青春するのも中々いいもんだぜ?」
「興味ない」
「みょうじの強情さも相変わらず…か」
冷たくあしらうような言葉を返しているのに、男子生徒の態度は変わらず穏やかだ。
困り顔での笑みは本心からのものなのか。今に限っては、疑う余地はないのかもしれない。
わざわざ私に構う辺り、暇なものだとは思うが。
「さよならだけが人生だって、言うでしょ」
哀れまれているのか何なのかは知らないが、大きなお世話というやつだ。
クラスを同じくした人間に腫れ物のように扱われようが、昼休みを一人で過ごそうが、園芸部の仕事を部員全員から押し付けられていようが。
私が気にならないのだから、気にしなければいいものを。別に嫌がらせを受けているわけでもないというのに。
大体、一人で過ごすことの快適さを知れば、合わない他人と合わせようと無駄に努力する方が馬鹿馬鹿しいというものだ。
好きなだけ好きなことを、独り占めできる。充分満足できる環境に、不満は一切ない。
「人間なんて、いつかは離れる時が来るんだから」
いいじゃない。一人きりでいたって。無駄に失わずにすむじゃない。
その方が絶対に楽だと思うのに、こんな時ばかり鋭い男子生徒ははっ、と息を飲むと勢いよく私を見上げてくる。
「その文は確か、意味が違ったんじゃないか?」
苦虫を噛み潰したのは、やはり私の方だった。
文字の上辺だけをなぞって、通り過ぎてしまえばよいものを。
「確か…あれだ。人生に別れは付き物だから、今ある縁を大事にしろって教えだったよな?」
「……ちっ」
「女の子が舌打ちするもんじゃないぞ」
どうやら私の認識が甘かったらしい。もう少し馬鹿かと思っていたが、鈍そうな顔をして急所を刺すのが巧い男だ。
にっ、と口角を上げて笑う男子生徒の周囲の空気は穏やかだから、余計に質が悪かった。
「別れだって色々あるだろ。喧嘩別れも、お互いを思っての別れも、死別も。全部が全部別れなら、どうせ味わう日がいつかは来る。拘ったって仕方ないってもんだ」
「別に私は…わざわざ多く傷付く必要もないって思うだけで」
「そうだな…別れは辛いよ。傷付くのも怖いよな。でも、別れの次には出逢いが来るだろ?」
さよならだけが人生か?
そう言って笑う顔は、憎たらしいほど一年前と変わらない。
強張り続けた胸の奥が、溜息で弛む。振り上げた右手に握ったシャワーノズルの先、アーチを描いた水が軽く男子に掛かった。
「うおっ冷てっ!!」
「前」
「ん?」
「前、見て」
「前?…ああ! 虹か!」
綺麗だな、と素直に喜ぶ姿に、完全に毒気を抜かれてしまったようだ。
一年の期間を開けても懲りずにやってきた物好きに、観念した私は大きな溜息と共に、その大きな背中に向かって吐き出した。
「お帰り、木吉鉄平」
さよならだけが人生でも、それはまだまだ先らしい。
花と嵐
(ああ、ただいまみょうじ)
(うん)
(洒落た退院祝いだな)
(これは手抜きっていうの)
(………ん? 名前、覚えてたのか!!)
(そのテンポ忘れるのも中々難しいわ)
*
勘酒(于 武陵)
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ(井伏鱒二訳)
20130424.
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