自分は理性的な人間だと思っていた。そう信じて生きてきたはずだった。
何事にも気を張り、打算的に。実にならないことには一切手は出さず、迷うこともなく模範的な道程を歩いてきたつもりでいた。
それがどうしてここまで揺らいだのか、なんて、答えはとっくに分かっている。
私を堕とした存在、その正体なんて。
出会いは、単純だった。
当時付き合っていた男に別れを告げられ、ぼろぼろになって落ち込んでいるところを、通り掛かった彼に声を掛けられた。それだけ。
整った容姿とはっきりとした物言いの慰めに、一夜にして落ちた。
年下なんて範疇外だと思っていた私の認識を、いとも容易く覆した彼は高校生で、後からその事実を聞いて驚いたことを覚えている。
年下の男を、好きになってしまった。衝撃を受けて固まる私を、笑い飛ばしたのも彼だった。
でも、だって、仕方ないじゃない。
内面からして私よりずっと賢く大人っぽいのに、まさか高校生だなんて。想像できるはずがなかった。
私がそんな愚かな恋に落ちるなんて、思ってもみなかったのだ。
(男運、悪いのかなぁ)
人気の疎らな喫茶店のテーブル席、過去に思いを馳せて深く嘆息する。
隣の椅子には、つい最近彼がふと溢していたバッシュが、大型スポーツ店の袋の中に眠っている。
手持ち無沙汰にグラスの中のアイスカフェオレに口をつけながら、自己嫌悪に陥った。
ああ、私本当、馬鹿みたい。
これじゃあ完全に貢ぐ女じゃないの。
(そんな歳でもないのに…)
落ち込む。歳の差があるとはいえ、精々三、四歳のものだ。
けれど学生という身分においてはその数は重くのし掛かり、私の心にも鉛を落とした。
立ち位置なんて関係ないと、彼は口にする。確かに成人を越えれば、その差を気にすることは少なくなるだろう。
けれど今は、些細な触れ合いにも気を配ってしまう。肌を重ねても罪悪感に襲われるような関係性に、ただ浮かれて酔いしれることはどうしてもできない。下手したら私は犯罪者だ。
それでも、好きだった。彼のことを愛している。
女顔負けの整った顔も、高校生とは思えぬ色気を孕んだ声も、慣れた手付きで私を愛す、その仕種の一つ一つも。
けれど想えば想うほど、切りつけられる心臓は悲鳴を上げて痛む。
ねぇ、それは。その口から紡がれる愛は、本物なの?
本物だとして、私はいつまで、貴方を縛ることができるの?
なんて。
(馬鹿馬鹿しい)
そんなこと、分かっているのに。
ストローで掻き回した氷が、グラスの中でがらがらと音を立てる。無性に泣きたい気持ちになって、摘まんでいた部分を指で押し潰した。
求めて泣くなんて、馬鹿なことはしない。全部私の望みなのだから、弱音なんて吐けるはずもなかった。
私の恋人は、優しい。誰にでも、それは過ぎるほどに。
当然、学校でもそれ以外でも女子が放ってはおかないだろう。そのことも理解しているし納得もしている。
私は解っていて彼を好きでいるし、付き合っている。
彼の一番欲するものになれないことも、理解していて。
気紛れでしかない優しさ、いつでも切り捨てられるような執着心に縋り付く自分の無様さだって自覚していて、それでも。
それでも、彼が好きだから。
大学生という、まだまだ子供の年頃のまま大人の仮面を被る。
根本は成りきれていない中途半端な存在でも、ひた隠しながら平気なふりをして。
どうせ、私は馬鹿なのだ。
馬鹿な女に、作り替えられてしまった。
「なまえ、これ…」
「ちょうど半年くらいだから、プレゼント」
包装を解いて、箱の中からでてきたそれに驚き、私を見返してくる。
そんなあどけなさの残る表情も愛しいから、仕方がない。
戸惑いつつもお礼と共に向けられる微笑に、私の頬も弛む。
こんなことで気を引こうとする汚さを自覚する、胸の中にはいつでも黒い靄が立ち込めていても。
「でも、半年まであと少しあるよね」
「え…辰也、覚えてたの?」
「どうして? 覚えてないと思ってたのか?」
「だって…そんなこと考える暇もないかと…」
私だけが、覚えているんだと思っていた。
彼には懸命になるものがあるから、記念日を忘れられていたとしても仕方がない、と。
その日に会う約束もしていなかったから、ついそう思い込んでいたのだ。
ぎこちなく切り返した私の言葉に、耳を傾けていた彼の眉が軽く寄せられる。それは一瞬で、すぐにまた綺麗な微笑みを返されたのだけれど。
「なまえとのことは、忘れないよ」
そんな、どれだけの比重があるのかも判らない一言にも、疼いてしまう欲望が憎い。
好きだから、苦しい。苦しいのは、辛い。
伸びてきた手に顎を掬い取られて、腰を引き寄せられても、拒むことだけはできないのが。
(忘れないのは、いつまで?)
解っている。彼が何より欲するものが私ではないこと。
私には届かない場所で、誰もに好かれていること。
だったらいつ転がるか、判りはしないじゃない。
重ねられる唇、舌を絡めるこの一瞬を、いつかはなくしてしまうのだ。
私の線を辿る指先を、いっそのことへし折ってしまいたい。そうしたら、少なくとも彼の中に大きな衝撃を残して居座れるだろうか。
できもしないことを考えて、深まる口付けに感じ入り、自嘲する。
滲む涙を目蓋の裏に押し込み、息を殺した。
「なまえ」
好きだよ。
いつまで聞けるのかも分からない囁きに、打ち砕かれてしまいそうだ。
噛み付いて離さずにいられたら、いいのに。
その為なら私の愛くらい、いくらでも捧げるのに。
でも、そうしたって意味はない。
(貴方の心は、きっとここにはないんでしょう?)
意趣返しにその胸に爪を立てても、戯れにしか取られない。
こんなに、粉々に壊れてしまいそうなくらい、私の心は求めているのに。彼しか、見えていないのに。
背中に感じるソファーの冷たさ、余裕を残した彼の瞳を見上げて凍える気持ちがする。
それでもまだ、ほんの少しでも繋がりを持てるのなら、縋り付かずにはいられない。
そんな自分が一番、憎かった。
あなたはもう少し器用な人かと思っていました
情けなくても、終わりが見えていても。
崩れ落ちてしまうまで…今はまだ、傍にいたいの。
20130410.
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