馬鹿な人間だと、蔑まれることも厭わない。
正しい形なんてものは元から存在しないし、そんなものには何の価値も、意味もないから。



「なまえ」

「なぁに?」



耳を擽るその声に顔を上げれば、外面の笑みを貼り付けた彼が気紛れな一言を落とす。



「今日、家来るだろ」



断られることなんて微塵も考えていない。そんな響きを聞き取りながら、私だって拒んだりはしない。
素直に頷いて返せば一瞬だけ、満足げに歪んだ唇がいい子だ、なんて溢す。

思ってもいないくせに。



「何するの?」

「さぁ…何してほしい?」

「真の好きにしてほしい」

「ふはっ」



私は、望み通りの言葉を吐けたのだろう。
他に見せつけるように繋がれた手は、間違えてはいけない。鎖代わりだ。

好きにしてほしい、なんて口にしたところで、叶えられることなんて殆どない。
いや、実際好きにはしているのだろう。わざわざ家に呼んで着いてこさせても、いないように扱われることが多々あるけれど。
そうして、もどかしさや退屈に耐える私を見て知らないふりで嘲笑う。たまに起こした気紛れは、受け止めなければ許さない。
彼は、そういう男だった。

それでも、その気紛れに振り回されることすら私には幸せだと。
思って、思わせている。

不毛だと、誰かが言うのも聞こえた気はするけれど。



(別に、いいじゃない)



飼われるような交わりでも、何もないよりは遥かにマシだ。
鎖みたいなものでも、繋いで傍にいさせてくれるだけで。
たまに歯向かってみようかなんて、自分の気紛れと向き合って結局できずに溺れることも。
思い出したように与えられる温もりに縋るような真似も。

どんなに惨めな行為でも、それで彼の愛を持続させられるなら、私は喜んで飛び付くだろう。
それだって、一つの優越だ。



(でも)



でも、ね。私だって、女だから。
おあずけのままなんて、耐えきれなくなることは、あるの。
優しさが欲しいわけじゃない。傍にいさせてくれるだけで充分。
だけど、それだけじゃあきっと、駄目なのよ。

最悪の結末を避けるには。
犬でいては、終われない。









響いた携帯の着信音に、その日は珍しくそういう気分だったのか、私に触れていた手が止まる。
至近距離で見つめ合う瞳に一瞬で苛立ちが走るのが見えた。



「…切ってなかったのかよ」

「ごめんなさい…大事な用があるから、気付けるようにと思って」



彼と会う時には、邪魔が入らないように携帯の電源は切っている。
マナーでは不充分だと、彼の機嫌から学んでのことだ。普段なら何の躊躇いもなくそうすることを、今日に限ってしなかった。

出てもいい?、と訊ねれば、余計に強い睨みが返される。
大事な用があると言っても、どうせ許されるだなんて思っていなかったけれど。

予想通り、鳴り続ける携帯に私より早く手を伸ばした彼は折り畳み式のそれを開く。
その様を、瞬きすらせずに私は見つめた。
そして、色を失う彼の、次の言葉を待つ。



「……お前」



空気が軋む音が、聞こえたような気がした。

低く、掠れた声が私の名前を呼んだかと思うと、強く突き飛ばされた。ベッドの上でそうされたところで、痛みなんて感じるわけもない。
顔のすぐ横にある腕、見上げた男の目は怒りと困惑に揺れている。



「いつ、あいつと会った」



それを特に表情を変えることなく見つめながら、首を傾げて返す。何も知らない馬鹿なふりなら、私の身には染み着いているのだ。



「木吉くん? 真は、知り合いなの?」



なんて、判りやすい嘘だろうか。
彼の部活とは何の関係もないとはいえ、人の繋がりなんてものは探ればいくらでも出てくるもので。
ある種の執着を向けられているであろうその人間とも、知り合おうと思えばできないこともない。

けれど、私は知らなかったふりをする。
ばれても構わないと思いつつ。



「何だよ、大事な用って」

「…真?」

「……会うな」



もう二度と、あいつには。

いいな、と、ぐい、と近付けられた顔に念を押されて、私は困り顔を作るとおずおずと頷いてみせる。

元から、その人間に対して取り分け興味があるわけでも何でもない。
私は、この顔が見られればそれでよかったのだ。



(いい顔)



理由の読めない困惑、自分のものに接触された怒り。そして、掴んでいた鎖の先が朽ち落ちていた、不安。
それを埋めるため性急に、貪るように重ねられた唇で、漸く私はほくそ笑んだ。

繋がれた鎖を、繋ぎ直して。








俺の所有物




飼い殺されて飽きられるのを待つような、犬では終われない。

離れられないのがどっちなのか、あなたはまだ、気付かない。

20130321. 

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