「みょうじー」



手前から二列目の前から三番目、自分の席に着いたまま友人と雑談している最中によく通る声で名前を呼ばれた。
はーい、と口では返事をしつつ、振り返るより先に、引き出しの中からノートを二冊ほど取り出す。友人に断りを入れて席から立ち上がり、向かうのは十数歩で辿り着く教室扉だ。

柱に片手を付いて私を待っていた馴染みの男子は、そこで初めて目が合うと軽く笑顔を浮かべる。人によってはチャラいという感想を抱くこともあるらしい彼の笑みは、慣れ親しんだ者にとっては安心要素になるものだ。
仏頂面でいるより、笑顔でいるの人の方が話し掛けやすいし。
そんなことを再確認しながら挨拶の一声をかけて、机から取り出してきたノート二冊を受けとる形で出された掌の上にぽん、と乗せる。



「はい、いつもの」

「サーンキュ! ホントいっつもごめんなー。絶対お礼するから!」

「いいよー高尾忙しいもん。別にテスト期間でもないんだし気にしないで」



受け取ったノートを手を合わせて拝む形にでも見立てているのか、縦にして頭と一緒に軽く下げられる。別に、本当にいいのに。

中学時代から縁の切れない高尾和成が、苦手教科だという古典と物理の二種類のノートを借りにやって来るのは最早一つの習慣のようなものだ。
昼以降はどちらの教科の授業も入っていない金曜、時間があれば昼休みに、なければ放課後の部活前に、彼は私のクラスにやって来てはノートを借りていく。

強豪と呼ばれているバスケ部のレギュラーに、一年にして抜擢された高尾は当然ながら多忙の身だ。正しくは、それだけの努力に体力、精神力を費やしているわけで、時間があったとしても充分な余力まではあるわけもなく。
しかし、どれだけ選手として活躍しようが、学生の本分は勉学である以上、それを怠るわけにもいかないのだ。特に私達の通う秀徳高校は文武両道を掲げる進学校でもあったりするから、成績の良し悪しが部活動に著しく影響を与えてしまう。
そこをきちんと胸に置いて、最低限勉強に足を引っ張られることがないように気を配る姿は純粋に偉いと思う。
だから、試験期間以外に小分けしてノートを貸してほしい、というお願いをいつかされた時にも、私は二つ返事で頷いたのだ。

文化部で活動も少なく、席だけ置いている状態の私には時間の余裕がある。ノートの確認なんていつでもできるのだし、頑張っている高尾の役に立てるなら何でもしてあげたい。
そう思うくらいには、彼とは中学の頃から親しく、いい関係を結んでいたから。



「ていうか、私もそんなめちゃくちゃ頭良くはないから…ちゃんと役立ってるか心配だけど」

「立ってなきゃ頼んだりしないって! みょうじのノートのまとめ方上手いから、オレにも解りやすいし」

「そう? ならいいんだけど…」



にこにことした高尾の笑顔は、たまに眩しい。褒められるのも、嬉しいけれど擽ったい痺れが小さく身体に広がるようで。



「あとオレ、みょうじの字、好きだったりして」



ぐ、と喉奥に何かが詰まるような感覚がするのは、軽口に恥ずかしいことを言われた時だ。今のように。
好きだなんて、簡単に口に出す言葉じゃないだろうに。たとえその意味の掛けられる媒体が自分でなくても、動揺はしてしまうもので。

変に照れてしまう私を覗き込んできた目がにやりと細まったから、これは態と、だろう。
顔に僅かに集まった熱を自覚しながら不満の目を向ければ、その顔はまたすぐに無害な、お日様にも似た笑顔に取り換えられる。



「じゃ、今日も借りてくから。ありがとなーみょうじ!」



宥めるつもりか、軽く頭に置かれた手がすぐに離れていく。たまにあるスキンシップにも慣らされたけれど、不快に感じさせないのがまたうまい。

どういたしまして。そう、手の代わりに振られたノートに手を振り返して、自分のクラスに戻っていく背中を見送った。引き返せば、くっつけた席に着いていた友人がにやにやと人の悪い笑みを浮かべている。見慣れてしまったその表情に溜息を吐いても、彼女は気にした様子もなく笑顔のままで昼食のパンを千切った。



「相変わらず仲良いよねー。まだ付き合わないの?」

「まだも何も…友達だってば」

「ぜーったい脈ありだってー」



高尾との仲をからかわれるのは、わりといつものことだ。
確かに、クラスも部活も、所属する委員会すら違うのにここまで関わることが多いと、突かれるのも解りはするけれど。だからといって、私と彼の間に甘酸っぱい展開が待ち受けている図なんて、想像が付かない。

高尾にも迷惑だよ、と軽く窘めてこの会話は終わらせるのが常だ。今日もまた、これも習慣のように染み付いた台詞を並べようとしていると、予期せぬ声が逆側から掛かった。



「なー、みょうじ。さっき貸してたノート、物理って書いてなかった?」

「え…? うん…」



誰かと思えば、声の持ち主は偶然席が近くなった、クラスメイトの男子で。
問われた言葉に戸惑いつつも、そうだけど…と返せば、一人で昼食を取っていた彼は箸を止めて、少しだけこちらに身体を向けた。



「やっぱり?」

「何、物理がどうかしたの?」

「や…確か高尾って理系はできるって聞いてたからさ」

「は? ああ、暮尾ってバスケ部だったっけ」

「そうそう。そんな話聞いてたから」



ちょっと気になったんだ、とクラスメイトの男子改め暮尾くんが呟く。私を置き去りに話を進める友人の目は、いい獲物を見つけたとでもいうように段々と瞳を輝かせていく。

なんだか、雲行きが怪しくなってきた。
飲もうとしていた野菜ジュースをストローを、つい噛んでしまう。



「物理だけ弱いとか、そんなないよな」

「そんなにはないわね」

「それは……でも…全くないってことも……」



反論しようとしたのに、二人分の興味のこもった視線を受けるとどうしても口籠もってしまう。
そりゃあ私もぶっちゃけてしまえば、古典と物理とは、なんだかちょっと不思議な組み合わせだなぁとは、思ったことは何度かあったりしたのだ。
それに、理系が得意だと語るなら、その中で唯一不得意とする教科についても話題に上がる方が自然でもある。

なら、少なくとも物理が苦手というのは、嘘、なのだろうか。
でも、何のための?
よれたストローからジュースを吸い上げれば、圧力に屈したパックが悲鳴を上げる。ズコズコいう音を耳にしながら、首を捻った。

決してからかわれている感じはしなかった。
高尾はいつも、本心からお礼を言っていたと思う。短くない期間接し続けて、彼の表情だってそれなりに読むことができている、自信もある。



(あれは偽物の笑顔なんかじゃなかった)



そもそも、悪意からちょっかいをかけてくるような、歪んだ人格をしている人じゃない。
私としては本当にどちらの教科も苦手なのだと信じたいところだけれど、もし違ったとしても、その理由は私を傷付けるものではない。そういう確信はあった。



「…直接、訊きに行ってみようかなぁ」



たまには、私から出向いてみるのもいいかもしれない。そういえば、高尾のクラスに行ったことって、あったっけ。

報告よろしく、と完全に楽しむ気でいる友人には渋い顔を向けて、パックの中のジュースを全てすすり上げた。









思い立ったが吉日。ホームルームが終わってすぐに教室を飛び出せば、ほぼ変わらないタイミングで号令がかかったらしい他クラスから人の波が流れ出てくる。
巻き込まれないよう脇に避けていると、その中からたった一つ、私を呼ぶ声が飛んできた。



「あれみょうじ? 何してんの立ち止まって」

「あっ…あの、高尾に訊きたいことがあって」

「オレに? なになに?」



近付いてくる高尾の目は、僅かに丸まって幼さを醸し出す。
その無警戒な表情を見て少し躊躇う。けれど、目的を果たさずに帰るのも馬鹿らしい。意を決して私は訊ねた。



「高尾って…物理、苦手じゃなかったの?」

「へ?」



その瞬間、きょとん、と完璧に瞠られた目にはやっぱり、人を欺くような狡猾さは窺えなかった。
疑うようなことを言ったのがなんだか申し訳なくて、慌てて必要かも判らない言葉を付け足す。



「いやあの、クラスのバスケ部の人が、高尾は理系得意だって教えてくれて…」

「えっ…! あ、ああ…そっかー」

「う、うん…」



ざわざわと流れていく人間を背景に、向き合う私達は普段ないくらいにぎこちなかった。

え、本当に不得意じゃなかったの…?
余程鈍感でなければ、気付いてしまう反応だ。分け目から露になっている額から目元を覆った高尾は、俯いてしまった。



「……ゴメン。古典はマジだけど物理の方は嘘」

「えっ…」

「あっでも悪気はないし、みょうじのノート見易いのも本当! ただ…」



黙って立ち竦むしかない私の目の前で、高尾の目元から手が外れる。



「ただ、さ…何か、みょうじに会いに行く口実欲しかったってゆーか…」



その顔は、熟れた林檎もびっくりするくらい、赤かった。
ドクリと跳ねた心臓に急かされる私にも、すぐに伝染してしまうほど。

だって。
だって、口実って。何それ。



「そ…そんなまどろっこしいことしなくても…普通に来ればいいんじゃ…」

「いや結構難しいからね! クラスも部活も委員も違って用もないのに会いに行くとか!」

「あ、それもそうか…うん」



照れが極まって叫ぶように返してくる高尾に、私も同じようなことを考えたことを思い出す。

そうか。じゃあ、繋がっていた縁は自然なものではなくて、繋げようとしてくれた高尾あってのものだったのか。
初めて気付いて、息が苦しくなる。
私、もしかしてかなり、大事にされていたんじゃないの。



「みょうじと関わるのに、手段なんか選んでらんねーって…」



笑顔を消して、困りきり赤く染まった顔で蚊の鳴くような声を出した彼に、高鳴り始めた鼓動の意味。
それはきっと、喜び以外の何でもなかった。






スペシャリストの掌の内





「手段など選んでいられない、とは」



寸劇を見物していたらしい台詞を吐き、眼鏡を押し上げた緑間は隣に並ぶと部室へと歩みを進める。
その反応に振り向いた高尾は、照れるでもなく口角を上げた。



「なーに真ちゃん、見てたの? つーか、何か言いたげじゃん」

「…よく言えたものなのだよ」



態とらしい男め。
ずけずけとした物言いを受けた高尾は一度吹き出すと、いやいや、と芝居がかった動作で首を振った。



「一つも嘘なんか吐いてないし。実際みょうじ相手に余裕なんか殆どねーよ?」



肩を竦めながらの台詞に鼻を鳴らした緑間は、その言葉の半分も信じていない様子で吐き捨てる。



「少なくとも、策を講じる余裕はあるようだが」



普段から喧しいと称されているはずの口は、やけに静まりかえり、異論も唱えられることはなかった。
ただ、弧を描く唇が、更に深みを増しただけで。





いつもお世話になっているPflanze Lagerの葉っぱさんへ、ハッピーバースデーのプレゼントです……いつだよって話なんですが…遅れに遅れすぎてますが愛だけは込めました…(´ω`)
寧ろ愛以外にフォローできる要素がなくてごめんなさい…あざとい高尾というリクでしたが考えるとなっかなか難しいですね! まず高尾は素が既にあざといっていうね…!
あざといというか、気を引くのがうまい高尾って感じになっちゃいましたが…こんなものでも頑張りましたので、よければお納めください。
お誕生日おめでとうございましたー!
20140731. 


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