―どうか ―その傷を、忘れないで ―永遠に、痛み続けるよう ―あなたが私を、忘れないよう それは、遥か遠い過去から寄越されたような残滓だった。 風に揺らされた葉が、互いに擦り合わさってざわざわと音を立てる。その隙間から微かに響いてくる声を拾えたのは、小梅ただ一人だけだった。 其処彼処に蔓延る数多の怪異にも、神の眷属の耳にも届かない、今にも消え入りそうなか細い思念。自分にだけ聞こえる理由の有無を確認するより先に、意図して動かしていた足をゆるりと止めた小梅は、忌々しげにその黒い目を細めた。 身の程知らず。 ぼそりと呟かれた声は、若々しい艶のある唇から出てきたとは思えないほど、低くどす黒く空気を震わせる。 瞬間、その目に写されていた一本の樹が根元から炎に包まれる。徐々に力を失う枝は崩れ、落ちて跳ね返り擦れ合う葉から上がる火の粉は、まるで樹木そのものの悲鳴のようだった。 「ざまぁみなさい」 明々と燃え上がるその様を暫し静観していた小梅は、二度と花も実もつけられないだろう姿を確かめると吐き捨てる。 ふんぞり返る彼女の表情は不愉快を語りつつ、それでいて一種の満足感も漂わせていた。 忘れないで、癒されないで、と鳴く声を無視して、立ち上る煙を暮れきった濃紺色の空に流し込む。 この場にはもう、永遠の黄昏は残っていない。この先もやって来ない。小梅がここに生きる限り、孤独を刻む思い出は強く息衝いて蘇ることはないのだ。 だからそんな願いは、絶対に届かない。 「無駄よ」 邪魔はさせない。 漸く本来の甘さを取り戻した小梅の声は、残酷な望みを刈り取って、念入りに消し炭にしてゆく。 「私は、絶対に離れない。独りになんてさせない。どんな傷だって、何度でも癒して、消してやるんだから」 淋しくて優しい神様を、傷付けて置いていったりしない。 “あなた”のように、独り善がりなことはしない。 未練を残すくらいならば、自分が残ればよかったのだと小梅は笑う。勝ち誇った態度で、形にもならない望みを焼き付くす。 ぱちりぱちりと飛ぶ火花が時折その頬を掠めても、寵愛を受けた身では傷一つ負うことはなかった。 「死人は黙って消えなさいよ」 あのひとは、もう、私のものなのだから。 これ以上の役者は余計だと、降り下ろした掌から先の地面がずしりと鳴いた。 焼け焦げた木は跡形もなく拉げ、その半径数メートルに及んで硬度のあった土が抉れ、沈んでいた。 「小梅」 一切の音を遮断するよう、羽織に包まり畳に転がっていた小梅に、掛けられた声は穏やかなものだった。 小梅、起きているだろう。 「裏の桃が、焼け落ちたようだが」 「しーらない」 「小梅」 とん、と腕に置かれた手から伝わる熱に、ささくれていた小梅の胸は単純に緩んで滑らかなものに変化してしまう。 「怒っているわけじゃない。お前は意味もなく何かを壊したりはしないからね。何があったんだ」 「……」 ゆるゆると擦ってくる掌の感触を受け入れていれば、横になったまま縮まっていた身体から次第に力が抜けていく。 それでも厳しい顔までは崩すことなく、小梅は渋々といった様子で尖らせていた口を開いた。 「女の気配がした」 「…そうか。小梅には何か感じるものがあったのか」 「セイ自身、遠い目をしてあの木を見ることがあるから。……私が入っていけないところに、居座るものが何なのかくらい、私にだって分かるのよ」 きっと深く根付く思い出があるのだと。それがどのような意味を孕んだものかということまで、小梅は察していた。 それだけなら、少し気に食わない程度で許せたものを。唐突に声を発し始めた、思念を染み付けていたあの木が悪いのだ。 「セイに、傷付き続けろって言ってた」 羽織に埋めていた顔を出し、傍に腰掛けて穏やかに見下ろしてくる色の違う瞳を見上げ返す。 願いを摘み取る間、自信に満ちていた黒い眼は、今は悔しげに潤んでいた。 本当は、小梅には解っている。 あの望みは今更声を上げる必要もなく、叶いきったものだと。知っているからこそ、その欲深さが腹立たしかったのだ。 「それが…勝手にセイを振り回そうとするのが、すごく気に入らなかった。セイは私の……なのに」 「ああ」 「木一本、消したところで何の意味もない。分かってる。セイがずっと忘れられないように、痕を残していくんだから……本当に女って、性悪よ」 この男は、永遠にも近い一生、得たものを忘れることはない。 それは小梅がどんなに働きかけても、変わらない真実だった。 ほろほろと溢れ落ちた雫が畳に染みを作る。苦しげに唇を噛む小梅に、鋭さを欠いた指先が伸びる。 親指が唇をなぞり力を弛めさせると、それ以外が慈しむような動作で目尻から落ちた涙を拭った。 「だが、その傷があるから小梅はずっとオレの傍で癒し続けてくれるんだろう?」 「……セイも、本当に、私に意地悪ね」 「それはすまないな。可愛くて仕方がないから、つい突きたくなるんだ」 切なさではち切れそうな胸を抱えて涙を流していた小梅とは、対照的だった。最初から責める様子のなかった男は、今や嬉しくて仕方がないといった笑みを浮かべている。 その余裕に再びむっとしそうになった小梅は、しかしすぐに思い直したように起き上がると、居住まいを正した。 「……征十郎」 そして、たった一つ。自分だけに許された彼の名を舌に乗せ、音にする。 仕舞われているはずの獣の尾が揺れるのが見えるようだ。 そう、彼の名を呼ぶ時、小梅はいつも思う。 応える声がなくても、絶大なる信頼と愛情を含んだ瞳が細められる。その微笑みだけで、小梅には充分気持ちが伝わった。 このひとは私に呼ばれるのが好きなのだ。 私が、愛しくて仕方がないのだ。 そう実感する度に、いてもたってもいられなくなる。 抱き締めて、手放してはいけないと思う。宝物にしようと決めた日を思い出す。 込み上げる熱を与える先を、小梅は間違えたりはしなかった。 自分なら、忘れさせないという選択肢は取らない、と。強く決めた心が、逸れることはない。 「私は、消えない傷なんかあげたくないから。あなたがどれだけ意地悪でも、ずっとここにいるからね」 いつだって優しかった神様に、誰も優しくしないのなら、私が優しくしてあげる。 置いていって傷付けて淋しさを植え付けるくらいなら、傍にいて抱き締めて思い出を増やしていく。 「いつか傷があったことも思い出せなくなるくらい…思い出さなくなったとしても、その先もずっと。ずぅっと、一緒にいるわ」 「…ああ」 「私がいつまでも、この世で一番、征十郎を想っているんだからね」 「ああ…小梅」 抱擁は珍しく、勢い付いていた。 堅く力強く掻き抱くように回された腕に、逆らうことなく身を委ねた小梅の身体が後ろ側に倒れこむほど。 強かに打ち付けるかと思った後頭部は、その手によって器用に受け止められて僅かな痛みも感じなかった。 覆い被さるように首もとに埋められた顔は小梅からは窺うことができない。しかし、見えなくても、どんな表情をしているのかは分かっていた。 何せこの神様は、小梅ただ一人だけにしか、幸せで満ち足りた表情を向けたりはしないのだ。 笑っていても、もし泣いていても。きっとその胸に残された傷より甘く、深く、私は根付いていくはずだ。 小梅はそっと口角を上げながら、白い衣冠に手を伸ばす。他の誰の手にも落ちない神様を、しっかりと抱き締め返して離さないために。 かなたあなたのみるゆめ 「だが…皮肉なことだな」 そうして暫く、お互いの存在を堪能し終える頃。普段と変わらない調子で紡がれる声が小梅の首を擽り、震えさせた。 なぁに、と甘い声で返事をすれば、獣らしく鼻先を擦りつかせる男が僅かに笑う気配があった。 「小梅を愛しく想えば想うほど、オレを置いていった者達を思い出す。意味もないのに比較して、小梅の存在を実感して、殊更に浸ってしまうな」 オレにとってのこの上ない幸福が、お前を板挟みにしてしまうようだ。 楽しげに、きちんと聞いてみれば酷い事実を突き付けられて、小梅が不満を込めた眼でその顔を覗き込もうとした時、それまで伸し掛かっていた重みが引かれる。 「身も心も…人の命も人の世も捨てて傍らにいてくれる。夢のような理想だよ…小梅、お前は」 持ち上がった頭が、近付く。頬をなぞり耳を擽る指に、小さく肩を縮める小梅を覗き返してくる、遠い日の夕空と鳥居の色。 閉じ込められない愛しさを溢れさせるように、その声、仕種、視線の全てがじわりじわりと小梅に染み込み、身体の芯を痺れさせる。 小梅の宝物は、世界で一番優しく、美しい。 「小梅は唯一の、オレの妻だ」 比較してみたところで頂点は決まっている、と。 教え込む言葉は教師か何かのようでも、その態度はどこまでも小梅を甘やかした。 「お前こそが他の誰も侵せない領域に居座っている、いつか消えてしまうこともない唯一だ。思い出より、この身で味わえる温もりの方がどれだけ尊いことか」 ふわりふわりと、花弁か何かのように頬や額、目蓋に鼻と、次々に落とされる唇は言葉を止めることもしない。 どれだけの想いが二人の間にあるのかを、思い知らせでもするように。 「解っているか…小梅?」 「っ……」 ずるい。 とくとくと鼓動を速め始めた胸を自覚しながら、小梅は小さく唸りを上げた。 怒っていたはずで、悲しくもなったはずで、素直に言い包められたいわけもなかった。 けれど、いつだって小梅の心は与えられる熱情を無視できず、虚勢も長くは保ってくれない。 それでも、嫌な気持ち一つ芽生えない。 「ずるい、けど……一番で特別が私だって明言できるなら、仕方ないから許してあげる」 何せ、小梅自身も大事な神様の傍だからこそ、満たされきって幸福を噛み締められるのだ。 それは昔から、まだ幼い頃に出逢った日から続いてきた当然。そして今や、永遠に手離すことのできなくなった不変の事項だった。 「征十郎は、私の…」 「夫だ」 一度、わざわざ唇ごと言葉を塞いだ男は、心底満足げに瞳を三日月のように細めた。 「この征十郎は、小梅の夫。誰でもない、お前のものだよ」 お前が、オレのものであるように。 花も木も焼き払うほどの驚異ではない。その必要は最初から全くなかったのだと。 優越感に満ちた笑顔を見上げた小梅は悟り、それでも堪えきれはしなかったのだと、赤く染まってしまった頬を膨らませた。 2014赤司birthday 20141220. 前へ* 戻る # |