深夜の学校、階段の踊り場には必死の悲鳴が響き渡る。



「マジやめて! それは死ぬっス! 割らないで!!」

「嫌」

「嫌じゃなくてっ! マジオレここ本体っ…ぎゃああ力溜めないでー!」



強く握り締めた拳を降り下ろしにかかる私の動きを止めたのは、この光景を前に少しの間傍観を決めていた顔馴染み達だった。



「何を苛ついているのだよ」



呆れ混じりに吐き出された溜息と、掴まれた手首。
珍しく各々のエリアから出てきた彼らは、揃って私を取り囲むと見下ろしてくる。
闇に光る瞳は、私でなければ不気味と恐れを抱くものなのかもしれない。いかな怪異も短くない付き合いとなれば警戒心すら煽られはしなかったが。

友人達が私に危害を加えることはない。同時に、私が本気で彼らに危害を加えることも。
ふっと身体から力を抜けば、手首を掴む手も離れていった。



「アイツと喧嘩でもしたのか?」

「喧嘩じゃないけど、飛び出して来た」

「何やってんだよお前」



普段は体育館から離れない二人が、片や心配げに、片や呆れた目を向けてくる。後者に若干苛つきを覚えたけれど、今はそれは些細なことだと流した。

そう、私は飛び出して来た。数年の時を重ねて馴染みきった異界の屋敷から衝動に任せて。
とても無視できない、事情あってのことだ。



「だってセイが、昔女と住んでたって言うんだもん」



自分が思っていたより情けなく弱々しい声が出てしまって、唇を噛む。
涙声になりかけた返事に気まずさでも覚えたのか、友人達は一様に口を噤んだ。それは、先程まで消滅の危機に晒され騒いでいた鏡の向こうの怪異までもが。

しかし、いつまでも黙っていたって仕方がない。
微妙な空気を振り払うように、音楽室の怪異が咳払いをした。



「それは、屋敷にか?」

「…表の社だったらしいけど」

「あ? ならいーじゃねぇか別に。家に入れたわけじゃねぇんだろ?」

「でも一緒にいたの」



狡い。酷い。傷付いた。
ずっと私だけだと思っていたのに、今になって聞かされた話に裏切られたような気持ちにさせられる。



「知恵比べだって…今度こそなんて変だと思ってたら、最初に約束したのはその女だって言うし」



私だけを大事にしてくれていると思っていたのに、見ず知らずの女との約束を引き継がせていただなんて明かされてみろ。ショックを受けずにいられるわけがない。
目の奥に痛みを感じて、ぐす、と鼻を啜る。



「だから今、浮気された気分なの」

「やー、会う前のことなら浮気じゃないっしょ」

「解ってる」



沈みこんだ私を見慣れない馴染みのメンバーが狼狽えかかる中、階段に腰掛けてマイペースに菓子を貪っていた怪異は何の気なしに抉る言葉を投げ掛けてきた。
それには、私だって素直に頷いた。

解っている。過去の話は生まれていない私にはどうにもできないし、セイが悪いことをしたわけでもないことは。
けれど、そう簡単に割り切れるなら二人きりの世界から飛び出して来たりはしない。
分かっていても、感情に急かされることはある。



「収拾がつかないことって、あるでしょう」



たった一人、永遠を共にする覚悟を決めた相手を、信じていないわけでもない。今のセイが私だけを愛してくれているのは知っているし、充分に感じていることだ。
けれど、私の干渉できない場所で、私以外と交わした言葉や気持ちがあることに、身体の内側を火で炙られるような感覚にさせられる。

醜く、歪んだ独占欲だ。それだって承知で抱え込んでいる。



「セイには、私だけでいいの」



だから暫く、家出する。自分の気持ちが落ち着くまでは。

取り囲む彼らの誰でもなく宙を睨んで呟けば、返されるのは其々の嘆息だった。
決意してすぐにここに来たのは、勝手知ったる場であり危険性も少ないから、なのだけれど。どうも先住者達は、私の選択に乗り気でない様子だ。



「それじゃあ、ボクらが嫉妬されてしまいます」

「…嫉妬する?」



軽く投げて寄越された言葉に、思わずぽかんと口を開けてしまった。
私が嫉妬しているのに、何故今セイがそうなるのか。わけが解らない。

そんな私の疑問には、すぐに鋭いツッコミが入った。



「いや、お前一応人妻っ…人じゃねーけど、そんなんだろ! 一人で他の男んとこにホイホイ来るか普通!」

「男?…あ、男。そっか」

「深山ちんオレらの性別全然気にしないよねー」

「みんな愉快な七不思議だから」



張り詰めていたものが、目の前の彼らに意識を向けることで霧散した。
言われてみれば、確かに彼らは男性だ。今まで怪異の性別なんて気にしてこなかったからか、改めて実感してみても特に何も感じはしないが。



「深山さんの特別は、本当にひとりですよね」



呆れたり怒ったり窘めたり、やはり賑やかな彼らを眺めていると、いつの間にか隣に来ていた図書室の怪異が静かに笑う。
その笑みはいつかと重なって、そういえば、と口を開いた。

前々から、彼に対しては不思議に思っていたことがあったのだ。



「どうして、セイの真名を知ってたの?」



屋敷を出てきたこと、彼らの性別、それらの内容は一度横に置いて、思い出した謎をそのまま問い掛けに変える。
ころころと機嫌を変える私に可笑しそうに息を漏らした、水色の髪が左右に揺れた。

知っていたわけではありませんよ、と。



「緑間くんの名を聞いた時に、いい名だと溢していたのを耳にしまして」

「セイが?」

「はい。妙に引っ掛かったので、言葉の意味を調べました。そうして辿り着いたあの字で、思惑は知れた」



貴女をどうするつもりなのか、ということ。
きっと、貴女に呼ばせるならこの言葉だと思った。

澄んだ色の瞳は、僅かに目蓋の下に隠される。



「思えば、ボクの前で手懸かりを落としたのも、後の備えだったのかもしれませんね」



元から、絡めとられていたのだろうか。
呼んだからには返さないと口にした男は、確実に答えに辿り着く道しか与えてくれなかったように思える。
今になって思い知る狡猾さは、しかしその大元の望みを知ってしまったからには憎めるものでもない。

不幸には、なれなかった。



「小梅」



私と水色の怪異を余所にざわめいていた他の連中の動きまで、ピタリと止まる。
一言、短く紡がれた私の名により、踊り場は一瞬にして水を打ったように静まり返った。



「な、何…」



誰、だなんて愚かな問い掛けはしなかった。誰より耳に馴染んだ声だ。聞き間違えるはずもない。
ぎこちない動きで振り返った先には想像通り、校舎に不釣り合いな白い衣冠が、闇にぼんやりと浮かんでいた。



「何、じゃない。迎えに来たに決まっているだろう。小梅」



かん、と下駄を打ち鳴らすように床に降りた男の足が躊躇する気配もなく近付いてくる。
つい逃げるために、背丈のある青い怪異の背後に回った。おいやめろ、と焦った反応は無視する。最初に適当な相槌しか打たなかった恨みだとでも思えばいい。
それより、向き合うべき問題がある。



「やだ。帰らない」



ひっ、と引き攣る喉の音は、鏡の中から漏れたものだ。
肌に刺さるほど冷たい空気が広がるが、私の苛立ちだってまだ完全には収まりきれていない。このまま屋敷に連れ戻されても、スッキリしない。

数秒間の沈黙の後、厚い身体越しに聞こえてきたのは細やかな溜息だった。



「仕方がないな…それならもう小梅の行く先々を壊すしか」

「わーっ! 早まらないで! 学校壊すのダメ絶対!!」

「…なら、浮気相手を消すか」

「誰も相手してねぇよ!!」

「結局殺す気だろう!!」

「てゆーか夫婦喧嘩とかやめてよねー」



物騒な考えはやめろと、途端に焦り詰め寄る怪異達に向けられる双眸を、距離を保ったまま窺う。
明らかに本気をちらつかせるそこにある赤と橙は、私には決して向けられない冷たさを宿して光っていた。
そんなものを見せられて、おまけにどうにかしてくださいと、こっそり近くから袖を引かれてしまえば見て見ぬふりもできない。私だって大切な友人達に本気で危害を加えるつもりはないのだ。

妥協、するしかない。
モヤモヤと胸の中を漂ったままの不快感はどうにか抑えて。



「…知恵比べ」



未だ不満の滲んだ声音になってしまったけれど、きちんと届いたようだ。
きょとんと瞠られた色違いの瞳がこちらに向けられたのを、真っ直ぐに射る。



「前の女が百度なら、私とは千度、知恵比べを交わすと約束して。じゃなきゃ帰らないしゆるさない!」

「千っ!?」

「二倍どころの話じゃありませんね」



恐らく、苛立ちも悔しさも悲しみも、顔に出てしまったはずだ。私以外の人間なんて、忘れてほしいのが本音。
だけれど、それがなければ私とセイは出逢いも繋がりもしなかったから。

焼け付く胸を抱えたって、独占欲に息が詰まったって、その事実には感謝しなければならない。
ぐるぐると混ざって歪んだ柄を作る私の思考を、きっと寸分の狂いもなく把握した男は、丸めていた瞳をやんわりと弛ませた。



「ああ、構わない。小梅が望むならいくらでも、何でも聞く。千でも万でも付き合おう」



汚いだけの我儘すら、愛しげに拾われてしまって敵わなくなる。



「かえろう、小梅」



どこにも、返さない。
そう囁かれているような気になる。気のせいではなく、私はもう返されない。たった一つの居場所にしか還れない。

そこにある幸福にしか浸れない。



「うん…セイ」



征十郎。

私にだけ許された名を、唇の動きだけで呼び掛ける。
それを取り零すわけもない、私の伴侶は満ち足りた笑みで頷いた。






しゅにまじわってあかくなる




「最初は、もう一度でいいと思った」



元いた屋敷に連れ戻される頃、静かに手を引いていただけだったセイが不意に口を開いた。



「え?」

「女の話だ。気にしたんだろう?」



口角を上げる男の足を踏んでやろうかと一瞬思った。けれど、その笑みはすぐに穏やかに、遠くを見つめるものになる。



「人に殺されかけたところを救われた。一度目に出逢った女だな」

「…待って。何回、女と出逢ってるの」

「三度目の正直と始めに言っただろう?」

「……」

「むくれるな」



くつくつと喉を鳴らして笑われて、余計に頬を膨らませてしまう。
過去の女のことなんて、聞いて楽しい話題ではない。態と嫉妬を煽っているのかと思うけれど、見上げた横顔に悪意は滲んでいなかった。



「一度目に接触した女は、オレを救って命を落とした。もう一度逢えたらいいと思ったよ」

「ふぅん」

「二度目の女は知恵比べを仕掛けてきた人間だ。百度の約束を果たす前に、病で死んだ。もう僅か、共に過ごしたかった」

「……」

「だが、どちらも命を乞わなかった」



私の中で燻っていた苦い感情が、揺れて萎む。
落とされた声は、笑っているのに切なさを感じさせた。



「小梅は求めてくれた」



鳥居の内側で、時間は流れ出した。今はもう空の色は外界と同じ、宵闇を彩っている。
赤い髪は暗闇にくすみ、青みがかる。覗き込んでくる瞳の色だけが闇を散らすように光った。



「傍に置きたい。終わりの有無が知れない命でも、続く限りは永遠に」



他の誰でもない、と囁かれる。



「漸く自分の望みを確かに理解した…小梅にしか叶えられないものだ」



求められ、隣を望まれたい。確かな自分の意思で。
その答えに二人共に辿り着いた。
嘘偽りは一つもない。



「愛している。小梅だけだ」



甘く重い言葉を、受け入れては溺れこむ。

なんて、狡い。
返す言葉も飲み込ませるように塞がれた唇に、噛み付いても、意趣返しにはならなかった。

20140325.

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