切り揃えられた黒髪が、風に揺れる。
喉が焼けそうな息苦しさにも構わず、石段を駆け上がった小梅は連鎖する赤い鳥居に飛び込むと、叫んだ。



「セイ! セイ、解った! 解った気がするの…!」



咳き込みそうになる喉を押さえ、ぜいぜいと息を乱しながら。
朱色に輝く鳥居の下、長く重なる濃い影を踏み締め速度を落とす。普段走らない距離を全速力に近い速さで駆け抜けてきた、小梅の足は限界を訴えて震えたが、止まりはしなかった。
止まれはしない。ドクドクと脈を刻む心臓は、決して走り通しでこの場まで来たという、それだけの理由に急かされてはいないのだ。

セイという呼び名と、その素質。
十年という節目。
提示された、関係を縛るに充分なたった一つの語。

そこに、気持ちが見えた。



「全て並べて、“征十郎”…! それがセイの名前なんじゃない…!?」



あなたの気持ちが、見えたよ。

人気のない、図書室の一角。澄んだ目の怪異が広げた辞典の頁に並んだ漢字。
その中の一つに、目を引く一文が載せられていた。

“郎”。
それが、女が男を、妻が夫を呼ぶ言葉だ。



「思っていたより早いな…流石は小梅といったところか」



夜闇を払う夕陽の中に、二、三歩分の下駄の音が響く。
外界から隔てられた空間、白い衣冠は僅かに朱に染まり、鮮やかな赤い髪は彩度を高めて輝く。
問い掛けに応えるようにの前に現れた姿を確認した小梅は、立ち竦みながらも息を整えた。

ああ、やっぱり。それが正解なの。
泣き出したくなるほどの激情が込み上げ、より一層鼓動を高まらせた。
切なくて、息もつけない。



「“征十郎”」



数歩の距離を保ち、立ち止まった男はゆるりと相好を崩す。見慣れた表情が、今はどうしてか慣れられない。

だけど、近付きたい。この距離を埋めたい。離れたくない。離れずにいたい。
ぎこちなく伸ばした手は、笑みを深めた男のそれに握られ、引き寄せられた。



「正解だ、小梅」



此処しかないと思うほど、幾度も収まった腕の中に今また、収まる。
白い衣に頬を寄せた、小梅の瞳から溢れ落ちたのは大粒の涙だった。



「漸く、望みが果たせる」



喜色を声にまで滲ませて、小梅を抱き締める男は破顔した。



「…セイ」



望んでくれていたの、本当に? 一方通行ではなくて?
私の望みは、叶っていたの?

問い詰めたくて見上げようとした顔は、爪を仕舞うことにも慣れたその指先に拭われ、擽られる。
至近距離で合わせた瞳はこれまでにない光を揺らめかせて、小梅の脳を、胸を射た。

答えが正解とするならば。隙のないこの距離が、セイの望みでもあるとするならば。
ずっと傍に置きたいと、想ってもらえたということ…?



「セイ」



答えが聞きたいよ。

夕焼けが僅か、涙を溜めた瞳を輝かせる。たっぷりと満ちた水面に日が沈むように、きらきらと。
綺麗だな、と覗き混んだまま胸に染み入らせるように呟いた男は、獣が擦りつくように額を重ねた。



「だが、泣き顔より、笑顔が見たい」



小梅の笑顔が好きだよ。

言葉より雄弁に、目が、表情が、声が全てを肯定する。
小梅の不安じみた疑問を溶かし、消していく。
力を抜いて凭れ掛かる身体を、しっかりと受け止める男は揺らがない。



「もう暫し、猶予は与えよう。だが、叶えられる望みを得られたんだ……小梅は、オレを呼んだ」



華奢な背中に回された腕はその堅固さを表すように、強く小梅を縛り付ける。
重く、切なく、痛みさえ生まれる。けれど、小梅の涙に負の感情は含まれなかった。

止まっていた時は、動き出す。
黄昏が終われば、次に来るのは夜の闇だ。



「お前が死んで転生したとしても、オレはいくらでも待ち続けることはできるだろう。それでも小梅、それがそのままお前になることは二度とない」

「…うん」

「それでは、足りない」

「うん…っ」



傍にいられれば何だってよかった。離れずにいられるなら、構わなかった。
唯一絶対、自分を慈しみ、愛してくれる存在があるなら。愛することをゆるされるなら。

続いていく時を、同じ場所で感じられるなら。



「小梅の全てが欲しいと言ったら」

「いいよ、セイ。征十郎の傍に、私ずっといるよ」



人としての生き道も、何も。いらない。



「人でなくても何でもいいよ。何にだってなる、好きにしていい。セイと、私。征十郎と小梅でいられるなら、何だって我慢できるから」



理性すら、意思を揺らがせはしなかった。
小梅に誰よりも優しかった神様が、望んだこと。それを間違いとする世界なら、放り出せる気持ちだった。

ずっと昔から、決まっていたのだ。
還る場所は此処だ。この腕の中だと、魂に擦り込まれた当然。覚えている。忘れるわけがない。



「元より、その為の問…その為の真名だ。呼んだからには、もう返さない」

「なにそれ…横暴だよ」

「それでも構わないんだろう?」

「うん」



躊躇い一つない小梅の答えに、満足げに細まった色違いの双眸。とろりと潤んだ瞳には、たった一人しか写されない。

この上ない贅沢だ。宝物にするように丁寧に、しっかりと抱かれているけれど、小梅の目には彼の方がずっと美しく写る。

ああ、そうだ。宝物にしよう。
綺麗な綺麗なこれは、私だけの。誰にも何にも譲らない。



「だってセイは、私がいないと寂しいでしょう?」



からかうように、悪戯に、小梅は一瞬で無邪気な笑みを作る。縁に溜まっていた涙が一粒落ちたけれど、気にもならなかった。
対して、鼻先の重なる距離にいた男の顔の方が虚を衝かれたようなものになる。
ぱちりと一度瞬いた瞳は、けれどそれもまたすぐに細められた。



「ああ…小梅がいないと、寂しくて堪らないよ」



私だけでしょう、と見つめる小梅の全てを肯定して、笑う。



「なら、いいの」



私だって今更、あなたのいない場所で時を刻むことなんて出来やしないから。

純粋なほど我儘で、他を顧みない選択だろう。
けれど、まともであっても欲しいものが手に入らないなら、難しいことを考えるのは無しだ。
答えが一つなら、シンプルな方がいい。猶予も不要だ。

衣冠の胸元を握っていた手を離し、子供がぶら下がる時のように近くにある首に腕を回す。
小梅に迷いはなかった。心は満ち足りていた。



「神様、隠してください」



いつまでも子供でいたいと思うのは、人の身には我儘でしかない。
それなら、人の身すら捨ててやって。

私をあなたの影に隠して。






かみさまかくしてそのかげに




宵の口、青く暗い闇に包まれる境内に人影はなく。
忘れ去られたようにそこに落ちていた一つの鞄は、夜が明けた後も所有者が知られないまま、捨て去られた。

20140325.

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