調べものですか、と。
不意に背後に現れた気配にビクリと肩を跳ねさせた小梅は、勢いよく振り返りその声の持ち主を仰いだ。
生徒の近付かない古書の保管された本棚の影、隠れた読書スペースで頁を捲っていた手が止まる。黒々と光る丸い瞳に写った存在は、至って普通の調子で挨拶をしてきた。



『こんにちは』

「……何で、いるの…?」

『ボクは学校の図書室の怪異ですから』



学校と名の付く場所に本があれば、出没できます。
椅子に腰掛けたまま軽く固まっていた小梅をおちょくってでもいるように、両肩を竦めた顔馴染みの怪異は淡々と答える。それが余計に態とがましく、小梅の表情も胡乱なものを見るものになった。



「随分融通の効く理論に聞こえるよ…?」

『まぁ、細かいことはいいじゃないですか』

「適当だね」

『適当な生き物ですから』



それより、中学卒業後はどうですか。
空に溶けそうな色の髪を揺らし見下ろしてくる彼に、小梅は一つ息を吐き出すと変わらないよ、と返す。

義務教育期間、流されるままに受験も終えて高校に進学して既に数ヶ月が経つが、特にこれといった感動は小梅にはなかった。
家も、学校も、屋敷での過ごし方も。取り立て目立つ変化もない。
一年近く傍を離れた小さな獣の重みを、段々と忘れ始めたくらいだろうか。それでも黄昏に時を止めたあの屋敷に向かえば、変わらず小梅を受け入れてくれるものはある。

寂しさや虚しさにも、人は馴れてしまう。
馴れたくもないのにと、唇を噛むことももう、しなくなった。
いつまでも子供でいたいと思うのは、人の身には我儘でしかない。



「他の皆は元気?」



続かない話題を避けるように、椅子に座る身体の向きを変えて今度は小梅から問い掛ける。
微妙な空気で途切れた会話を気にする様子は見せず、水色の怪異は呆れ混じりな溜息を吐き出した。



『元気過ぎる程には…ああでも、深山さんがいなくなってから度々つまらないと溢してますよ』

「そっかー」



個性的で愉快な七不思議の怪異の面々を思い出し、小梅の顔は素直に綻ぶ。賑やかで気のいい連中だった。目の前の彼を含めて、未だに大事な友達だと思っている。
高校は校舎が新しいからか、人ならざるものの気配を殆ど感じない。彼ら以外と上手く折り合いをつけて関われるほどコミュニケーション能力に長けていない小梅は、必然的に独りでいることが多くなった。

小梅自身も、つまらない日々だと感じている。せめてちびセイだけでもいてくれたら、と。
しかし小さな狐は最後の問を投げ掛けられた日からこれまで、一度として小梅の腕の中に返されることはなかった。小梅の神様は、一度これと決めた事柄には殊に厳しい。



『あの方がいないということは、まだ知恵比べは終わっていないんですね』



スウッと冷たい空気を胸に感じたところを、見透かしたようなタイミングで言葉は掛けられた。
読書用のテーブルに置かれた、広げられたままの分厚い書籍にちらりと視線を落として、小梅はうんと首肯する。

掴みかけては、いるんだけど。
静かに一度だけ伏せられた目蓋の下、理知的な黒目が何もない宙を見つめる。



「掛詞だと思うの」

『なるほど』



分かっているのかいないのか、淡泊な相槌を打って馴染みの怪異は続きを促す。
突っ込むだけ無駄と判断して、小梅はそれに乗っかった。



「事あるごとに自分が狐であることをセイは主張していたから、きっとそれは意味のある、ヒントだと思って…。まずは狐や神様について、調べたの」

『何か分かりましたか?』

「少しは収穫もあった。けど…足りないみたい」



複数の尾を持つ狐で、神様。セイが自らを聖獣と称していたことに、小梅は程無くして気付いた。
それから、最後の問を投げたその時、示し合わせたかのようだと笑っていたことも。
彼が、口にした。

もうすぐ十年か、と。



「セイと、十年。で、しかも正体は聖獣でしょう? 他の漢字に当て嵌めて考え付かないこともないし、答えは遠くないはずなんだけど…」

『彼は何と?』

「惜しいな、って」



概念自体には間違いはないらしい。言葉の繋がりに気付いて正否を確認した時、柔和な笑みを浮かべたセイは満足げではあった。
それだけではないと言われはしたが、不正解だとは言われなかった。

つまりは、不足しているのだ。何かが欠落している。
数年やり取りを重ねれば、少ない言葉からも真意を悟ることはできた。



「多分、あと少し…なんだけどなぁ……」



そう、柔く細められた色違いの双眸は語っていた。

重く溜め息を吐き出す小梅に、頷きながら耳を傾けていた怪異はほんの僅か、口角を上げた。



『それで…知恵比べが終わったら、深山さんはどうするんですか』

「…別に、どうもしないよ。私はセイから離れるつもりはないもん」

『それは、どうやって?』



できることならまた、ちびセイは返してほしい。
元は神様の分身なのだから、返すという言い方は傲慢かもしれないが。それでも一時も離れたくないほど、本当に依存していたのだ。
四六時中セイの傍にはいられないからこそ、ちびセイはいてくれなければいけなかった。

そんなことを考えていた小梅に、今度はまた答えに詰まる問い掛けが降ってくる。
どうやって、と。問われたところで今の小梅の中に答えがあるはずはない、方法論が。



『どうなれば、離れずにいられると思いますか』

「…どういう意味?」

『そのまま、具体的にです。どうすれば離れずにいられますか』



男と女が、情を重ねて。
人同士であっても、生きる時間を共にすることは難しいのに。
貴女は人間で、過ごす時間は重ならないのに。

それまで聞き手に回っていた怪異の口は、すらすらと現状を突き付ける言葉を並べ立てていく。
目を逸らし続けても逃げられはしない現実を、具体的に。真っ直ぐに。

透き通る水のような瞳に射られ、小梅の胸はドクリと震えた。



「どうすれば…?」

『絆というものは、其々特性があるものです。親と子は、何れは離れる。兄弟や友達といったものもそうですね。…貴女は、どうしたいんですか』



彼と、どうしたい。どうなりたいんですか。
そして彼も。どうしたくて、どうなりたいんでしょうね。

問答は、逃げ場を塞いでいく。袋小路に追い詰められる。



「……私、は」



セイと、どうしたい? どうなりたい…?

開いた頁に置いたままだった手に、力がこもる。くしゃりと皺の寄る紙の音に、小梅ははっとしてその手をどけた。
それを見越し伸ばされていたらしい一回り大きな手に、様々な文字の詰まった分厚い書籍は拾い上げられる。

この場に他に人間がいれば、本が独りでに空中に浮き上がったように見えただろう。
両手で持ったそれをパラパラと捲り流して、視線を滑らせていた彼はとある部分でぴたりと頁を止める。



『これはボクからの入学祝です』



高校入学、おめでとうございました。
そう口にしながら、とある頁を開いたまま先程まで目を通していた書籍を目の前に差し出される。
誘われるまま受け取った小梅は、何気無くその紙面に目を落とした。



『いい答えが見付かるといいですね』



ドクリ。
今度は、心音が全身にまで響き渡ったかのようだった。

親子でも、友達でも、恋人でも。何れ別れは訪れる。
微弱に震える指先が、そこにある文字をなぞった。

込み上げる感情が視界を霞ませようとする。鼓動は一度跳ねた後から、どんどんと速度を増して胸を叩いてくる。
言葉を紡げなくなった小梅を優しげな眼差しで見下ろした怪異は、重要な用件は片付いたとばかりに床を蹴る。



『では、ボクはこれで』



また、ボクらにも会いに来てくださいね。

声にも笑みを滲ませて、最後にそう残した影は消え去る。
止める余裕も理由もない。
小梅は開かれた頁を胸に押し付けながら、一時、残された言葉の重みを噛み締めた。

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