話はまた、四百年ほど時を遡る。 時の政や異国から伝来した新興宗教に影響され、存在を忘れ去られる社が其処彼処に増えた時期のこと。 その忘れ去られ始めた古びた社の一つ、手入れの行き届かなくなった境内に住み着いていた狐のもとに、一人の人間の女がやって来た。 みすぼらしくもなく、かといって上等な装いでもない。着物に包まれた肌理の細かな白い肌は若々しさを残し、それでいて少し力を加えればぽきりと折れてしまいそうなほどに痩せ細っていた。 鳥居の下に踞り動かなくなった客人に、時間を置いても立ち去る気配を読み取れないその人間に、気紛れを起こした狐は社の中で据え続けていた腰を上げた。 人ならざる姿は、常ならば人の目には映らない。しかし、ほんの僅かな獣の足音を拾った女は抱えていた膝から顔を上げ、迷いなく像を捉えた。 そして、口にしたのだ。 貴方は神様ですか、と。 狐は問い掛けには答えなかった。 それを肯定と受け取ったのか、女は喜びとも悲しみともとれない表情で感情を押し込めた瞳を細めた。 そうして語るには、捨てられて行き場がなくなってしまったのだ、と。 私が小袖から伸びる手を見た、その日から廓の中で祟りが起きたのです。 元より人ならざるものをよく目にする質ではあり、それを知る方も多くいらっしゃいました。 しかし姉さん方が次々と病に倒れると、悪因を知りながら遠ざけられなかった私が責められることになりました。中には私が悪鬼を呼び込んだのだと言い出す方も出てくる始末です。 当分は出られるはずもなかった廓から、追い出されてしまいました。口減らしに奉公に出されたものだから帰る宛てもありません。 廓で過ごしていたと言うだけあって、困りきった調子で語る声に悲壮感は漂いはしなかった。 口を挟まず耳を傾けていた狐を見据える瞳にも怯えはなく、神と称したその口で大胆な申し出を紡ぎ出す。 この社で雨風を忍ばせてほしいのだと。 随分と肝の据わった女を眺めて、狐は短く思案した。 人の身でなければ損得を計り比べる必要もない。これといった感慨もなく、女の願いに首を縦に振った。 居たければ居ればいい。居たくなくなれば居なくなればいい。人の世に嫌気が差したのならば、自由に生きるがいい。その眼がある限り、滅多なことでは此方側から害は加えない。 あっさりと承諾するとは思っていなかったのか、狐の回答に目を丸くして驚いた女は、するとすぐに相好を崩した。 お礼にはなりませんがそれならば、と。 つまらぬ人の身ではありますが、貴方様の退屈を幾らか埋められるよう、尽力しましょう。 百度、知恵比べを致しましょう。それを終えた時どのような答えが出るのか、それを楽しみに生きるのも、きっと悪いものではありません。 長い年数、代わり栄えのない日々を持て余していた狐にとっても、それは疎うような提案ではなかった。 そうして、人と獣のほんの僅かな繋がりを得た時間は始まり…… 消えた。 しずまぬひとともに 花の咲き誇る時期は短い。 美しく着飾り色香を纏い、苦境を笑みで隠しこむ、あそびめであれば当然に辿る末路ではあった。 百度交わすはずの知恵比べが半分を過ぎた頃には、痩せ細る女は立ち上がることもできなくなった。 六十八度目の問に、答えを出したのは女の方だ。湿気る畳に横たわり、自分で起き上がることも叶わなくなった女は終わりを悟って傍らに着いた狐へと詫びた。 喉が焼けて、酷く渇く。耐えきれる苦しみではないから、ここまでだと。 沈みかけの傾いた日が、社の中まで差し込んでいた。苦しげに眉を顰め、浮かんだ汗を拭えもしない女は最期、身を捩りたくなるような痛みの中でその色が好きだと笑ってみせた。 神様の目と同じ、強くて綺麗な色だ。 血潮と、沈む前の太陽の色…強い命の色。そんな色に抱かれて死ぬなんて、いい具合だ。 彼女は、潔く諦めのいい女だった。 まだ問は残っているぞと、藻掻く手を握り込み落とされた狐の言葉にも、縋ることなくごめんなさいと、謝罪を溢しただけだった。 あなたといられて、たのしかった。 陳腐な別れの言葉を残し、儚い花の命は事切れた。 黄昏時、眩しいほどの陽光が鳥居を焼き付けていた、一つの世界が時を止めた日の話。 20140322. 前へ* 戻る #次へ |