交わし続けた問が、残り一つとなった時。示し合わせたかのようだなと彼は笑った。



「もうすぐ、十年か」



白い衣に包まれた背中に寄り掛かるようにして座り込んでいた小梅に向かって、語り掛けているようでも、ただそこにある事実を感じたまま呟いているようでもあった。



「残る問は一つ…長かったのか短かったのか…」



慣れたように爪を隠した手が、肩に乗る小梅の頭を撫でる。
地肌を撫で髪を掬う指先の心地好さに目蓋を下ろす彼女が見えてでもいるように、もしかしたら実際見えていたのかもしれないが、彼の吐息はくすくすと静寂に満ちた空気を揺らした。



「最後の問だ、小梅」

「…最後」

「ああ、これが最後だ。ここまで続けられた小梅なら、辿り着ける」



それまでくっつけていた背中を離し、首も持ち上げる。
怖じ気付く気持ちを、表には出さない。たとえ見抜かれていたとしても小梅は恐れを押し隠し、振り向いた男から告げられる言葉を待った。

いいかい、小梅。最後の問だ。

つり上がる瞳がその本性を現すように、にぃと細められる。
目にも脳にも心にも馴染んだ、赤と橙の双眸が笑う。



「このオレの真名を当ててみせろ」



それが最後だと、彼は笑った。









「無茶ぶりにも程があるよ」



ぷくりと頬を膨らませる小梅の肩に、見慣れた影は寄り添っていない。知恵比べを締め括る問を与えられたその夜より、小さな狐は姿を消していた。
完全なる不干渉を貫くということを暗に示され、芽生えた心細さを苛立ちで誤魔化す小梅に、相対する女子生徒は赤い唇を持ち上げた。



『寂しいの?』



からかいの混じった声音に、特に怯むこともなく小梅は溜息を吐く。
寂しくないなんて、口が裂けても言えるわけがなかった。

年を重ね力の扱いを覚えた小梅に、既にお守りが必要ないことは分かりきっていた。余程のことが起きても、小梅一人で充分対処できる。人であろうと人ならざるものであろうと、今の小梅が敵とするには実力は到底及ばない。
それでも離れずにいてくれた、離したくなかった存在を一時的にでも取り上げられてしまった小梅の心は、これまでの経験を上回り例がないほど荒んでいた。



「寂しい」



寂しいに決まっている。
ずっとずっと小梅と一緒にいて、見守っていてくれたのはセイなのだから。
必要だから、傍にいたわけではなかったのだから。



「離れたくないのに…セイが意地悪するんだもん」

『でも、会ってはくれるんでしょう?』

「…屋敷に行けば。でも、行ったら問の答えを求めなきゃいけなくなるし」



今更知恵比べ自体を誤魔化して長引かせて、逃げ道を探すような真似もできない。

一件の出来事から生徒の間では呪われた場所として避けられている、体育倉庫。
その閉じた扉に預けていた背中をずるずると擦るようにしてしゃがみこむ、小梅の表情は翳っていた。



「迷ってるの…知恵比べを終わらせた時、私はどんな風にセイに会いに行けばいいのか」

『…怖いのね』

「だって、私にはセイだけだもん…セイだけが友達じゃなく特別で、ずっと大事な存在で…」



だから変化に、今までの関係を手離すことに躊躇してしまう。
どれだけ言葉や時間を重ねて宥められても、状況や関係が変わり行くことを恐れる気持ちは拭いきれない。
人と人ならざるものの壁は厚く、そうでなくとも小梅には、正しい触れ合いや馴れ合いの類いがよく分からない。
ずっと離れないものと思っていたちびセイすら傍にいない現状では、小梅の心が怯え震えるのも無理はなかった。

言葉を交わせなくとも温もりがあるだけで、今までは支えられてきていたのに。
うっすらと赤い和毛と、その奥から伝わる生命の温もりに、何度だって小梅は救われてきたのに。
なくてはならない存在にまでなって、今更引き剥がすようなことをするなんて酷すぎる。

細い腕で抱き締めた身体は冷えていて、心細さを助長させた。



「律子さんは、こんな気持ちになったことある?」



危険はないのに不安で、疑うわけでもないのに寂しい。

ゆらりと宙に揺れる悪霊は、小梅の問い掛けに軽く目を瞬かせると、その眦を下げた。
そうね、と。黒々とした髪を漂わせ、紅い唇を吊り上げて。



『…私ね、この体育倉庫で首を吊ったの』



天井近くに釘を打ってね、と入口近い一角を指差す悪霊に、小梅は静かに頷くだけだった。
彼女はこの場に執着しているから、ここで死んだのだと聞かされても特に驚きはない。寧ろ当然のことと受け止められる。



『誰よりも愛している人に、一番に見つけられたくて。私はこんなに愛してるのに、あの人だって愛してくれていたのに、臆病風に吹かれて逃げようとするから許せなくて』

「…先生?」

『当たり』



笑みを崩さない彼女の瞳の中には、未だ愛憎の炎が燻っているようだ。



『数年待っていてくれれば、私は真っ直ぐに先生のもとへ向かえたのに…なのに、気の迷いだとかお別れだとか、そんなこと言うの…酷いじゃない?』

「うん…お互いに心があるのに突き放すのは、意地悪だと思う」

『まぁでも…男が意地悪なら、女は性悪ね』



女って酷い生き物だもの。
彼女は笑う。

卑怯者でも愛していたから、ぐちゃぐちゃに引っ掻き回して、あの人が死ぬまで私を忘れさせたくなかった。
心を引き裂いて、立場を揺らがせて。私がいない世界では幸せになれないように。

過去に思いを馳せるように天井を仰いだかと思うと、小梅の傍に降りてきた彼女は毒素の抜けないままの甘い声で囁く。



『でも、小梅はまだ救いがあるわ。傍にいられないなら死んでやるって、一言口にすればきっと…』

「でも、それじゃあ駄目なの。一方通行で無理矢理傍にいても、悲しいから」

『…そうね。愛されたいものね』



私はセイに認められた上で、傍にいたいの。

甘言に惑わされない小梅の顔を覗き込んだ悪霊は、らしくもない微笑を浮かべて首肯する。
本気で引きずり込もうとしないほどには、彼女も小梅を気に入っていた。

その、真名というものだけれど、と。穏やかに話をすり替える。



『とても重いものだと思うわ』

「重い…?」

『だって、獣とは言え神に列なる立場にある存在の真名よ? 心臓を取り出して渡すようなものだわ』

「そんなに大事なものなの?」

『命と同等には、きっとね』

「じゃあ…セイは、私に命を握らせようとしているってこと?」

『だとしたらとっても情熱的よね』



頬に手を当てて年頃の女子が夢見るように溜息を吐く、彼女を横目に小梅は頭を悩ませる。
手にすればあの男は貴方の意のままよ。そう耳の中に吹き込まれても、気持ちは浮き上がらない。

欲しいものは、命じゃない。



『名は体を顕すというわね』

「…体って狐? 神様とか?」

『さぁ。私には正解は分からないけど…小梅にはきっと分かるはずだわ。そう、言ってもらえたんでしょう?』

「……うん…でも、ノーヒントだし…」



何より、終わらせることに気分が乗らない。
再びその顔に陰を落とす小梅の隣に、長い黒髪を浮かせながら悪霊は地面にしゃがみこんだ。



『でも、救いがあるわ』



だって、貴方は愛された子だもの。

揺れて震える小さな胸に、言い聞かせるように囁かれた声は湿った空気に溶けて消えた。









『神格持ってるってことは…あいつ天狐か?』

『狐についてでも調べりゃいんじゃね』



放課後の部活時間を過ぎた体育館で、今夜もまた激しいゲームを始めようとボールを手にし始めた怪異二名に、小梅は声を掛けた。
セイの真名を解き明かしているんだけど、と。

特に興味を示す様子はなかった二人だが、彼らなりに小梅の言葉を無視することなく話に付き合ってくれた。
基本的に、気のいい性格なのだ。



『とりあえず、全くヒントなしってことはねーだろ。終わらせようとするならお前に分かるレベルだと思うぜ』

「そうは言っても、セイと過ごした時間は長いし…ヒントがあってもいつ落とされたのか分かんないし…」

『だから、初心に戻ってみたらどーだっつってんだよ。そのセイって呼び名も、どっから来てるか知ってんのか?』

「……知らない。最初にそう名乗られた、だけ…」



そういえば。盲点を目の前に突き付けられて、はた、と目を瞠る。
褐色の肌をぼりぼりと掻きながら何でもないように口にした男に、小梅は視線を合わせるために首を捻った。



「もしかして、何か知ってるの?」



人指し指の先でくるくるとボールを回転させている男は、まさか、と返す。



『勘だよ、勘』

「それは…侮れない、よね」

『さぁな』



しれっとした顔をしているが、人ならざるものの勘だというなら無意味とは思えない。
む、と眉を寄せて悩み始めた小梅に、もう片側から気遣いの滲む声が掛かった。



『どうせオレらが答えを求めるわけにはいかねーし。どっちにしろ、初心に返るってのは悪くないと思うぜ』

「…うん」

『見つかるといいな』

「うん。二人とも、ありがとう」



優しさと本心からそう思って口にしてくれたのだろう。悪意のない言葉に、小梅はやんわりとした笑みを返す。不安定なまま揺れている心の内は、隠し込んだ。



本当に、見つかっていいのかな。
見つけたとしても、私はどうするんだろう。

最後の問を、終わらせた後は。






ちいさなせかいにしるべなし




「夜な夜な遊び回って…周りからどんな目で見られているか、お前は知らないのか!!」



門限というものを大きく破ることは、日常茶飯事だ。
家にいても嫌がるのに世間体は過度なほどに気にする、両親の激昂を受けるのも小梅には慣れきったことだった。

遊び回っているわけでもなければ、学業の評価を落としたこともない。事情を知らず知る気もなく、溜まった怒りをぶつけてくるだけの彼らの本心を小梅はよく知っている。
彼らは恐れているだけなのだ。異能の娘を、化け物として。
何とか優位に立ちたくて、突き刺せる弱点を粗探ししている。思い通りに動かせないことが不安で仕方がない矮小な人間。

遺伝子レベルの繋がりしかない彼らを、小梅は半分ほど目蓋を伏せた瞳で見つめるに留まる。
何を口にするつもりもなかった。口を利くだけ無駄だということを、充分に学んできていた。



「何だその目は…! 何とか言ったらどうだ!!」



そう年を重ねずして増えた白髪は、壮年の顔にはいくらか不釣り合いだ。
父親の怒りが止むまで無言で受け止めきって、彼が歯痒さに黙る頃を見計らって自室に向かう。
そうすると待ち受けていた妹とぶつかる。全て、代わり映えのないシナリオだった。



「出ていけ! 化け物っ!! お前のせいで壊れたんだ!! お前さえいなければ普通でいられたんだ!!」



扉を開けた瞬間に投げ付けられた、テキストやノートがバサバサと音を立てて床に散らばる。
咄嗟に鞄を盾にした小梅に、憤る妹はその手を止めて叫んだ。



「誰もお前なんか、望んでない! 死ねよ!!」



それはとても聞き慣れた言葉で、声で、聞き流すことにも慣れきっているはずのもので。
なのに、いつもと変わらない動きでベッドに潜り込んで耳を塞いでも、金切り声は頭の奥まで響いてなくならなかった。

首もとが寒くて、落ち着けない。
身体を丸めて毛布に潜る。今日は考え事に時間を費やして、セイにも会いに行けなかった。

時間は、止まってくれなかった。ずっと同じ場所にはいられない。
だったら私は、どこへ行けばいいの。

慰めの温もりは遠く、抱えた身体はいつまでも冷えていた。

20140303.

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