ぱん、と打ち鳴らされる掌の音と同時に、胴回りを締め付けてきた感覚に小梅の背が少し仰け反る。 対して腕回りは柔らかな生地が纏わり付き、赤を基調とした花々の散らされた白い浴衣を見下ろした小梅は、ほう、と感動の溜息を吐き出した。 「早着替え…」 「その言い方はどうなんだ」 「セイは万能だねー。さすがは神様!」 軽く結われた黒髪には、梅の花と雨垂れを象った簪がさされている。着物のようにきちりと結ばれた帯には金糸が縫い込まれており、光を受けると微かにきらきらと輝いた。 近くに出された姿見の前でくるくると回って自分の浴衣姿を確かめる、小梅の表情は分かりやすく浮かれている。 「すごーい、浴衣だー!」 「気に入ったか」 「…似合う?」 袖を伸ばしたり、曲げてみたり。はしゃぐ小梅を微笑ましく見つめていた男の声に、それまでの動作をピタリと止めた彼女が振り返った。 じっと見上げてくる幼さの滲む切実な瞳に、一度目蓋を下ろした男は口許を弛ませて微笑む。 「ああ、愛らしい。オレが見立てて小梅に似合わないはずもないが」 「…じゃあ、気に入った!」 「それはよかった」 ぱっと、頬を赤くしながら再び顔を輝かせる小梅の髪を崩さないよう、伸ばされた指は優しく頭に触れると離れていく。 そうしてすぐに、小梅に合わせるならこのままではいけないなと、瞬き一つの間に白い衣冠も形を変えた。 白地に登り龍の柄が浮かび上がる浴衣は普段小梅の見ている姿よりも軽装に思えるのに、元の存在感が強い所為か全く見劣りはしない。 けれど、きっちりと着物を着込んだ時よりもほんの少し隙のある立ち姿に跳ねた胸を、小梅は誤魔化すように視線を逸らした。 「狐なのに…龍」 「どちらも聖獣には変わりない」 「それ、屁理屈じゃない…?」 大分形状が違うよ、と呟く小梅の声は、真正面からは届かない。 慣れない姿に戸惑いを覚えている小梅に小さな笑みを溢し、男の手はゆらゆらと揺らされていた袖先から覗く指を絡めとった。 「さて、行こうか」 祭りはもう、始まっている。 踏み越した連なる鳥居の先は、屋敷までは運ばれてこない喧騒に満ちていた。 今まで興味も持たずに見過ごしてきた縁日に、二人して浴衣に着替えて出掛ける。 そのきっかけを作ったのは、小梅の通う学校の七不思議の一つだった。 『お菓子、食べたいなぁー』 いつも購買部のお菓子をごっそりいただいていく、とても大きな怪異が漏らした一言。 小梅以外の人のいない音楽室に響くピアノ演奏に浸っていた昼休みのことだ。彼らの行動範囲は特に決まっているわけでもないらしく、暇潰しにやって来たらしい食いしん坊は小梅のいたすぐ隣の席に腰かけると背中を丸めた。 そして聞いてもいないのに、近く行われる縁日に行きたいと駄々をこね始めたのだ。 『学校の七不思議が学校を離れたら意味がないのだよ』 『そりゃそーだけどさぁ』 流れるような動作で鍵盤を叩いていた怪異が、演奏を止めて呆れた様子でつっこみを入れる。 それに不満げにしながらも顔を上げた食いしん坊は、落とした肩を上げきれずに唇を尖らせた。 『でもー、屋台の食べ物って食べたくなるじゃん。人間じゃないって時々不便だし…』 学校の怪異が学校を離れると、少し面倒な事態になるらしい。 だけれど、たまには外のものも食べたいという我儘を溢す巨体に、小梅は考えた。 小梅にとっては友達の一人の、小さな願いだ。 お祭りには連れていけなくても、食べ物くらいなら。代わりに買ってきて届けるくらいなら自分にもできると。 そう提案すれば、食いしん坊の怪異は子供のように瞳を輝かせて喜んだ。 そして今日が、その縁日。 校門近くまで出てきてくれれば渡しに行くと約束を取り付けたから、あの食いしん坊はこの時間から既に今か今かと待ち構えていることだろう。 けれど、小梅にとっての初めての祭りならと、同行を決めたセイはわざわざ浴衣まで準備してくれていて。これでお使いだけ済ませてしまって、自分が楽しまないというのもなんだか勿体なくなってしまった。 少し遅くなっちゃうかもなぁ。 斜め前を歩く男の背中を見つめながら、浮き足立つ心を隠すこともできない小梅は思う。 屋敷の外に引きずり出した神様と手を繋いで祭りに紛れる。考えてみればとんでもないことだ。 喜びの中には僅かな背徳感も混ざり込み、小梅の心を染め上げていく。 「でも、神様が七不思議のお使いって変だね」 「人が怪異に使われるのも大概だろう」 「だって友達なんだも…んっ!」 軽く交わされるやり取りは、小梅の身体が唐突につんのめった所為で途切れた。 危なげ無く受け止めたセイのお陰で転んでしまうことはなかったが、その胸に強かに顔をぶつけてしまった小梅はうう、と唸る。 「いひゃい…」 「っ! ごめんなさい、よそ見して…えっ?」 「?……あ」 転ぶ寸前に衝撃を感じたから、ぶつかられたのは分かっていた。けれど慌てて謝ってくる声はすぐに訝るものに変わる。 不思議に思った小梅が顔を上げると、その先には学校で見かけたことのある顔が複数、並んでこちらを見ていた。 「えっ、あれ…深山さんっ?」 「うそ! 深山さんお祭りとか来んの!? てゆーか、誰!?」 支えてくれていた腕に掴まりながら体勢を戻した小梅は、それまで浮かべていた無邪気な表情を曇らせる。 傍目からも分かるほどに渋い顔になる小梅には気付かず、知り合いらしき女子のグループの目は労るように小梅の肩に片手を置く、背後の男へと向けられた。 「深山さんのカレシ…なわけないよね?」 「こんばんはー、私達深山さんと同じクラスで、友達でー」 「あ、よかったら一緒に回ろうよ深山さん!」 流行りの派手な着付けで身を飾り、なんともあからさまな誘いをかけてくる知人の目には、小梅という人間を虚仮にしたいという気持ちが見え隠れしていた。 学校にいる間に小さな嫌がらせや陰口を叩かれるのは、小梅にとっては最早日常茶飯事だ。 けれど、それにしても、普段進んで関わらないタイプから友達という単語が出てくるのは、全身に鳥肌が立ちそうになるほど気持ちが悪かった。 思わず、うわぁ、と小さく唸った小梅の声を拾ったらしい、背後の男が喉を鳴らして笑う。 お守りとして付けている分身を通して、セイは小梅の対人事情を把握しているのだから、彼女らの本性も知っていて当然だった。 「拗ねるな、小梅」 「拗ねてない…解ってるでしょ」 「ああ、そうだな。オレも小梅と二人きりでいたい」 長い指が小梅の頬を擽り、蟀谷よりも少し上に唇が落ちてくる。 その感触に白い浴衣に包まれた肩をぴくりと跳ねさせた小梅が、言葉を返す隙はなかった。 「えっ」 「う、わ」 「そういうことだから、この子に声を掛けるのはまたの機会にしてくれ」 驚きに硬直した女子グループの返事も聞かず、再び繋がれた手が小梅を引いて人込みの中に引き入れる。 草履の音を周囲の喧騒に溶け込ませ、すいすいと人の間を縫い歩いていく男に続きながら、熱を持ってしまった頬を誤魔化せない小梅はすぐ前にある広い肩に頭突きした。 「わざとらしい…っ」 思考くらい読めるくせに、反応を面白がって。 ついさっきまで胸にあった嫌悪感は、今はもう羞恥心で消し飛ばされてしまっている。 すっきりしただろう、と肩越しに振り向く男はまだ笑っていて、小梅の悔しさは長続きしなかった。 決して、嫌なわけではなかったのだから。 「…よかったの? 人と話せるチャンスだったのに」 そう、嫌なわけがない。 だから返ってくる答えに期待して、小梅は確かめる。 繋いだ手に力を込めて色違いの瞳を見上げると、小梅の気持ちも何もかも解っているであろう男は間を置かずに頷いた。 「間に合っている。と言うよりは役者不足だな。さっきの言葉にも嘘はないよ」 小梅の望む答えを的確に紡ぐ唇は弧を描き、繋いだ手の指先は宥めるように、一回り小さなその甲をなぞる。 「小梅といられることが、至上だ」 「…セイ」 「お前はオレを人好きだと思っているようだが」 親子連れやカップル、友人同士で楽しむ者。たくさんの人の流れの中にいても、不思議と小梅の耳は大きくもないその声を拾うことができる。 誰よりも温もりを込めて、自分を見つめてくれる瞳も、見失うことはない。 「オレが望んで傍に置くのは、人ではなく小梅だ」 他は一人も、誰も要らない。 黄昏時を過ぎた空は紫の雲を引きながら紺に染まり、赤い髪の色をくすませる。 それでも、深く、胸の奥まで言い聞かせるよう額を重ねて合わせた瞳は、夜の気配を遮り小梅の目に鮮やかな色彩を送り込んで。 どくりと跳ね上がる鼓動に唇を噛む小梅の頬を、ひと撫でした指はすぐに離れていった。 くれなずむとき 「狐が狐面を着ける意味ってあるの?」 「別に意味は要らないさ。せっかくの祭りなら乗じるべきだ」 屋台で売られていた林檎飴に口をつけていた小梅の頭に、簪を避けるよう斜めにして白い狐の面が被せられる。 純粋に祭りを楽しんでいる様子の男の頭に、同じように掛かった面は笑っているように見えた。 本物の耳の方が柔らかくていいのに。 そんな気持ちを胸に見上げていた、小梅の手がもう一度引き寄せられて繋がれる。 「印のようだな」 まるで、マーキングだ。 囁くほどの小さな声と、飴の端を噛み砕く音が重なる。 舌に広がる甘ったるい味より、欲しいものを握り締めて小梅は俯いた。 優しさを理解している。 それでも気に食わない心は、何度も何度も震え続けてきた。 肩を並べられる高さ、近くなった視界、合わせられるようになった歩調を確かめて、肺を押し潰されていくような感覚を小梅は強く目を閉じてやり過ごす。 暮れない夕暮れが、恋しい。 気付いているはずの男は、こんな時だけ振り向いて抱き締めてくれない。 (セイ…) ねぇ、セイ…私、やっぱり。 大人になんか、なりたくないよ。 気持ちが届かないわけはなかった。届いても聞き入れてもらえていないのだ。 たった一人と言ってくれるなら、いつまでもそうだとも言ってほしいのに。いつまでだってその腕の中に、いたいのに。 時間が進めば気持ちは色を変えて、夜の気配に震えてしまう。 「セイの、ばか」 弱々しい憎まれ口に返されたのは、笑み混じりの溜息一つきりだった。 20140204. 前へ* 戻る #次へ |