時は八百年と少しばかり遡る。
その当時、内裏までもを騒がせた火事の悪因として、呪術、占術を担う官職に就く者達の手により一匹の野狐が捕らえられた。

曰く、妖術を扱いいたずらに人を脅かした悪狐、と。
そう評された野狐は、既に長くを生き多くの物事を見てきた妖狐には違いなく、獣の性すら忘れかけ生死への拘りも失った存在であった。

その狐が、特に世を儚み無気力に埋もれていた頃の事だった。
己にとって無意味な人間の憤りにも興味はなく、ただただ面白味を探して命を繋ぐことにも飽きが来始めていた頃。何処からか住み処を嗅ぎ付けて集った官人により、大掛かりな術が仕掛けられた。
世間を騒がせる程の火事を起こした覚えはなかったが、手慰みに適当に狐火を放らなかったとも言い切れない。ここまで生き延びた分の罪の有無を問われれば、清算するに三百年程掛かるくらいには罪というものを背負ったこともあるかもしれなかった。
その自覚を確かに所持した狐は、一切の抵抗なくその術に甘んじた。

罪の意識が薄ければ、これといって罪悪感はない。代わりに怯えもなかった。
生まれた命は何れは死に行く。宿命から外れる気持ちは元からなく、ただ、偶然に偶然を重ねて力と知識を蓄えてしまった狐には、最早今更執着するだけの楽しみは、現し世には存在しなかった。

そうして、どれくらいの時が流れたかは知らない。数日であったかもしれないし、数ヶ月は越していたのかもしれない。
徐々に弱り行く呪いに身を置き、微睡む意識を感じるだけでいた狐は、ある時ぼろぼろと結界の綻んでいく音を聞いた。

いくら底知れぬ妖力を保持しているとはいえ、特にそれを放った覚えはない。不可思議な現象に、狐は重みの増した目蓋を持ち上げた。
小さな足音と花の匂いを、獣の知覚が感じ取る。冷たい洞穴の入口から浸入した生気が、望むより先に弱らされた狐の躯を包んだ。

明るみの増した土を踏み締めて現れたのは、一人の女だった。
焦った様子で着物の乱れも構わず、走り寄ってきた妙齢の女が、地に横たわったままだった狐を引き摺るように抱え上げる。
僅かな驚愕に包まれながらも特に抗うようなこともなく、抱えあげられた狐は何をするつもりなのかと、純粋な疑問を抱いた。
首をもたげて顔を確かめた女と、面識はなかった。

それなりに力のある官人の集って拵えた結界を破り、悪狐と評された狐の元にわざわざ現れるだけの、何か捨て置けない理由でもあるのだろうか。妖に頼りたい程の、困り事でも。
どうせ死に行く命なら、その前に誰かの、一つの願くらいは叶えてやっても構わないが。

そんな狐のぼやけたままの思考を振り払うように、二、三度強く和毛を撫でた手は冷たく、眠りかけていた意識を引き上げた。
洞穴の入口に近付けられるにつれて、徐々に意識は覚醒していく。可笑しさに気付いた狐を見下ろした女は、静かに微笑んだ。

目を丸くして見上げる狐と、視線を合わせて。
お逃げなさい、と女は言った。

幾年、幾十年、下手をすれば幾百年か忘れていた、呆然としてしまう程の驚愕を取り戻した狐は、少しの間何も返さず、女の本意を探ろうとした。
しかし、その瞳や心に薄暗い感情は見つからなかった。

彼女の恩恵で満ちていく生気に僅かな狼狽を覚えて、逃がせばどうなるか解っているのかと、狐は女に問い掛けた。
都を騒がせた悪しきものを解き放つなど、正気ではない。その罪が露呈することがあれば確実にお前の命はないぞ、と。
他者に懸念を抱くことすら何時ぶりかも判らない狐の言葉に、ほんの少し驚いた顔を女はすぐに綻ばせた。

差し措けないものもひともないから、と。
笑った女はもう一度、早く逃げろと狐を急かした。



彼女が何を知っていたのか。何を思い理由にして、たった一匹の狐に救いの手を差し伸べたのか。
確かな思惑の全ては、誰にも知られない。








やこのはは




無垢な魂には、礼を持って接しなければならない。
願の一つでも差し出してみろと唆した狐に、女はやはり笑って口にした。

叶うことならば、楽に死にとうございます。






後に、内裏までもを騒がせた悪狐を逃がした裏切り者は、官人であった伴侶の手により処される瞬間、突然の落雷を受けて命を落とす。
鋭い稲光はその一度に終わらず、女を引き摺り上げた官人の数名を焼き殺し、彼らの拠点となる要所を焼き焦がす大火事を引き起こした。
不可思議なことにその火は雨粒を受けても一向に消える気配を見せず、官庁の一部を焼き尽くすまで勢いを弱めることなく燃え続けた。

20140118.

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