走る。走る。
まるで部活中、厳しい試合の最中のように真剣に。
心臓がドンドンと胸を叩いても、息が切れて視界が霞みそうになっても、逸る足は止まらなかった。止めるわけにもいかなくて。
それほど切実に、“嘘だ”と。その一言が欲しかったから。
「緑間っち…!!」
教室、部室、体育館を回ってから、図書室から続く廊下で漸く見つけた目的の人物にぶつかる勢いで詰め寄れば、勢い任せに胸ぐらを掴まれた相手は不快げに眉を顰めてくる。
それを申し訳なく思ったり周囲の目を気にする余裕もなく、荒く息を吐いて上下する肩を落ち着かせるのも後回すしかなかった。
今のオレにとって大事な事柄は、たった一つしかなくて。
「どういうことっスか!?」
「突然何なのだよ。離せ」
「何じゃっ、ないっスよっ……あいつが…っあいつ、転校するって!」
名前を、知らなかったわけじゃない。オレを掻き乱してきた存在を口に出すのが不愉快だとか、そういうことでもなかった。
喉奥でつかえた音を、特定の名前を吐き出せなかった理由。
それは、オレが彼女を呼ぶことを快く思わない相手に、今正にぶつかっているから、で。
それでも、オレの言いたいことを理解はしてくれたんだろう。
あいつ、オレを今でも掻き回し続ける女。彼女の幼馴染みである緑間っちは、一度深く目蓋を伏せたかと思うと口を開いた。
「…夏葉か」
「! やっぱり、知ってたんじゃないスかっ…何でっ…教えてくれなかったんスか! 何でいきなりっ」
「オレに義務はない」
ましてや、お前にはあいつのことなど何一つ関係ないだろう。
重苦しく放たれた言葉が一撃、ズガン、と身体の中央に穴を開ける。
息が詰まるような衝撃に、割れた風船のように全身から力が抜け出ていった。
真っ当な言い分に、返す言葉が見つからない。胸ぐらを掴んだままだった手は、軽く腕を振っただけで払われてしまった。
(関係、ない)
ああ…そうだ。解ってる。
オレには関係ない。確かにその通りだ。
どうしようもないくらい、拒むに当たっては正しい理由だ。
彼女、駒居夏葉との間に、私的なことに首を突っ込むような関係は築けなかった。
あんな中で築けるわけが、なかった。媚を売って手を回して、意図的に傷付けさせて、追い込んだのは誰だ。
その結果がこういうことなら、オレが誰よりも、完全に、無関係にならなくてはいけないんだろう。
少なくとも彼女や、緑間っちの中では。
(じゃあ、終わり、か)
情け容赦なく繰り返された、泥水を跳ね返した追いかけっこは。これで、おしまいなのか。
ああでも彼女も、そう言ってたっけ。
がんがんと頭の中で声が響く。込み上げる頭痛の所為で、息は整ったのにまたもや視界が霞みだす。
さようならと、清々しいほどの笑顔でナイフを振り上げた彼女の声が。
清々すると、去っていった背中が目蓋の裏でリフレインする。
清々する?
嘘でも言えない。嬉しいはずがない。
じくじくと膿んで腐り行く、痛みと苦しみしかオレには、ない。
「…緑間っち」
どうしてかな。急速に、世界が死に向かっているみたいだ。
気持ち悪いくらいどくどくと跳ねる鼓動は、一生分を使いきってオレを殺そうとしているようで。
振り払われたまま落ちて揺れる、自分の指先から冷たく、身体中どこまでも凍り付いていく気がした。
「あいつ、どこに行くんスか…」
「…オレが、お前に教えると思うのか」
「お願い…!!」
縋れないから、頭を下げた。
他者の目に晒されることもプライドを曲げることも、今は構っていられない。
必死だった。自分なりに、馬鹿みたいでもそうするしかないと思った。
みっともなくて、愚かなことだとも判断できたけれど。
けど、だってもう、こうするしかないだろう。この焦燥感、喪失感を味わわない為には。オレの、為には。
終わりだなんて言わないで。
お願いだから助けてよ。
「お願い、するから…っ教えてください…!!」
こんなことになるなんて思ってなかったんだ。
なんて、口にするのはいつだって加害者ばかりだ。どこかで聞いたような無責任な台詞を思い出した。
現実はそんなものを認めるほど、甘くもないのに。
「お願い、だからっ…お願いします、教えて、」
「それで、お前はどうするのだよ」
冷たい声が、項垂れたオレの首を切る。
ギロチン台の上に寝かされた罪人のようなオレに、刃を落としてとどめを刺す。
「教わって、あいつの新しい生活まで掻き回して、二度も壊す気か。まだ苦しめ足りないか」
「っ…ちが、」
「今更」
反論しようとした喉まで、駆け抜けた寒気で凍り付いた。
眼鏡の奥の冷たい眼差しは、今までだって感じていたもので。
ずっと、彼女を見捨てなかった幼馴染みだ。わざわざ彼女が傷付くかもしれないような選択を、するような人間じゃない。
解っていたはずだ。
「お前に、関わる権利はない」
オレに猶予すら与えず、切り捨てることくらい。
解っていた。解っていた、けれど。それでも。
憤りで染まった目で睨まれても、その言い分に何も返すことができなくても。
「緑間っち…!」
お願い。お願いだから。
(嘘だって)
悪夢だって、誰でもいいから言ってくれよ。
欲しかったのは、これじゃないんだよ。
オレはこんな結末を望んじゃいなかった。
「教えて…よ……っ頼む、から」
通り過ぎる緑間っちはもう何も応えてくれない。
離れてしまった彼女に掛ける、配慮のある言葉なんて最初から持ち得ないし、届きもしないだろう。
解っているのに、許容できなくて。
足元から崩れてしゃがみこむオレに、一番欲しい救いの手は現れなかった。
引き起こした顛末を、受け入れたくないのに。
嘘であればいい。夢ならいいのに。
明日からもう、アンタはいないなんて、そんなこと。
3、2、1…はい、お終いですねぇ、どこに行ってしまったの。なんて。
会えたところで、謝れもしないくせに。
20130904
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