「駒居っちって、ホント強いっスよね」
望まぬ介入者の口から唐突に飛び出してきた言葉に、つい眉を顰めてしまった。
一回も泣いてるとことか見たことないし…と続けた男が何を思い出しているのか、想像するだけ腸が煮え繰り返りそうになる。
勝手な憶測で幼馴染みを語られるのは不愉快で、お前が何を知っているのかと、つい突っ掛かりそうになり一度だけ口を噤んだ。
話の中心である夏葉は小腹が空いたと言い残し、今は席を立っている。平日夕方のファーストフード店のレジは混むらしく、軽く行列が見えた。
帰ってくるまでには少し掛かりそうだ。それを確認してから、眼鏡を押し上げる。
わざわざあいつの耳に入れるような話題でもないが、何も知らずにいられるのも癪でならない。
「あるのだよ」
「へっ…?」
「だから、あるのだよ。当時夏葉が泣かされた事件が…まぁ、一度きりだが」
オレよりも長くレジ方向に顔を向けていた黄瀬は、ストローから口を離すと目を丸くして振り向いた。
想定外だったのは、斜め向かいに座っている高尾まで驚きの声を上げたことだ。
「えっ、何それオレも知らねーんだけど!」
「…意外だな。あいつのことだから、お前には話してあるものと思っていたのだよ」
まぁ、わざわざ話して聞かせる内容でもなかったのかもしれない。特に悲劇ぶる人間でもないため、嫌なことは深く考えずに忘れたがるところがある。
話したくなかったか、忘れていたか。どちらにせよ夏葉にとって特に深い理由があるわけではないだろう。
「えっ、ちょ、待って緑間っち! それ詳しく…!」
「断る。何故オレがわざわざお前に話して聞かせねばならん」
「いや、だってそれオレの所為でもあるだろうし! それに、この先駒居っちの地雷踏んだりしないように知っとくべきでしょっ?」
「黄瀬クンの所為でしかないと思うけど」
「踏みまくって取り返しがつかなくなればいいのだよ」
「ちょっと!」
机を叩いて抗議する黄瀬に、どうやら引く気はないらしい。
砂糖とミルクを含んで甘くなったコーヒーを傾ける間、冷たい視線で睨みつけてみても効果はなかった。
日に日に図太くなっていく態度が一々苛立たしく感じてならない。
とにかく話す気はないと押し切ってやろうとする瞬間、しかしポテトをつまんでいたもう一人がひょいと顔を上げた。
「あ、でもオレも気になるわ。夏葉が泣くとか相当だろーし」
「高尾…」
「興味本意じゃねぇよ? いや、ぶっちゃけそれもあるけど、弱いとこ知っとけば傷つく前に庇ってやれんじゃん?」
ふざけた笑い方をする奴ではあるが、発言に嘘はないのだろう。僅かに鋭くなった目の奥に夏葉への配慮があるのは窺える。
夏葉自身、本気で関わる人間を誤るような呆けでもない。信用に価すると思ったからこそ、高校まで高尾と共に進んできたのだろう。
あまり話したい話題でもないが、守るためと言われれば仕方がない。一つ溜息を溢しながら、記憶を遡った。
どこから話すべきだろうか。
そもそも、こいつらが夏葉をどこまで知っているのかも分からない。
「夏葉には兄が一人いるのだが、それは知っているか」
まずは発端を語らなければどうしようもない。
話の中で基本となる知識を問えば、答える二人はそれぞれの反応を見せた。
「えっ、いや…初耳っス」
「オレはちょろっと聞いたことあるけど。今海外いるんだっけ?」
「ああ、ほぼ国外を飛び回っている。少し歳が離れているからか相当に夏葉を可愛がっていて、夏葉もかなり懐いているのだよ」
「へぇ…なんか意外っス」
台詞の通り、不思議そうに瞠目している黄瀬を、そこだけは責める気にはならない。
普段の夏葉は他者にべったりと張り付くタイプでもないので、想像がつかないのだろう。
だが、あいつは兄が関わると性格が変わる。
しっかりと据わっている人格がその一要素だけで一気にぐらつくのを、オレは幼馴染みという近い立場だからこそ何度でも見せつけられてきた。
兄から約束を破られただけで、その日食事をとろうとしなかったり。
兄に初めて交際相手ができた時には、一週間ほど誰とも口を利かなかったり。
兄が海外へ飛ぶと、翌日は必ず脱け殻のようになっていたり。
とにかく、夏葉が筋金入りのブラコンであることは疑いようがない。普段の夏葉とはめっきり様子が違うが、それも本質であることは事実なのだ。
その時も、そうだった。
黄瀬の嗾けた女子達による細々とした嫌がらせは、ほぼ黙殺していた夏葉。それが、我慢の限界に達した理由は、最愛の兄の存在が関わっていた。
「夏葉は基本、物にも人にも過度には執着しない奴だが…その兄からの贈り物に手を出された時は、相当ショックを受けていたのだよ」
ぼろぼろと、敵対する人間の前で大粒の涙を溢したのはあれきりだろう。
学校では体育の時間だけ外すと言っていた、自分が傍にいない代わりにと兄から贈られていたペンダントを失った夏葉は、これ以上なく動揺していた。
「お兄の…ペンダント…盗まれたっ!」
ちょうど昼休みに入る時間だった。
騒ぎを聞いて駆け付けてみれば、ぐしゃりと歪められた顔が振り向き、オレを見つけるとそう叫んだ。
犯人に目星はついていたらしく、すぐにオレから顔は逸らされ、ある女子の胸ぐらを掴んでいた手が大きく揺さぶられる。
そして想定外の事態に怯え竦む相手に構わず、夏葉は勢いよく頭突きをかました。その目には悲しみや悔しさより強く、憎悪の感情が表れていた。
「いっ! ったぁ…なにすっ…」
「何するはこっちの台詞だわ! 返せ泥棒っ…このクソ下種ブスがっ!!」
今までされるがまま、どんな嫌がらせにもこれといって動揺しなかった夏葉の、本気の怒りは激しすぎたらしい。
泣きながらでも拳を振り上げる夏葉に、捕まえられたままの女子が引き攣った声を上げたのをよく覚えている。
周囲の人間も、夏葉のあまりの剣幕に狼狽えて口も出せないような状況だった。
「今すぐ! 出さないと殺す!! ぶち殺してやる!! お前ら全員の顔面ぐっちゃぐちゃに潰してやる!! 人に見せられない顔になる前にとっとと出せやぁぁっ!!」
半狂乱とは、ああいったものを言うのだろう。予想もしなかった事態に青ざめる女子達の様子といえば、滑稽なものだった。
正直に言えばオレとしては胸がスッとしたし、そのままやりたいようにやらせてやりたかった。が、放っておくと確実に夏葉の内申に関わるのも事実。
それは本意ではなかったため仕方なく落ち着かせに入りはしたが、わざわざ怒りを鎮めさせようとは欠片も考えなかった。
それだけ夏葉にとっては大事なものだと、知っていたのだから当然だ。
「え、っと…それ、見つかったんスか…?」
大方経緯を話し終えれば、掻い摘まんだ説明に黙って耳を傾けていた黄瀬が、そろりと手を挙げて問い掛けてくる。
その頬は軽く強張っていた。
様を見ろ、と思うのは、これも仕方がないことだろう。
全ての元凶であった男を、今でも許してやった気は更々ない。
「さすがに、夏葉の剣幕に怯えた生徒が白状したが…ペンダントそのものはガラス細工だった所為で壊されていたのだよ」
「うわ…マジでゲスかよ」
最悪だな、と吐き捨てる高尾の表情も既に笑っていなかった。気持ちは理解できる。今になっても反吐が出る事件だ。
悪意から私物を盗んだ生徒達は、さすがに見て見ぬふりもできなかったらしい教師にこっ酷く叱られ、父兄に連絡も行ったらしいが…それは奴等に対する結論でしかない。
壊れた物は、元には戻らない。
その後の夏葉はというと、目も当てられないほどに落ち込んだ。
確かその時も三日ほどは部屋に引き籠もり、登校を拒否していた記憶がある。
「お、オレ、駒居っちに何かっ」
「先に言うが、お前が代わりを買い与えても意味がないのだよ。あれは兄からプレゼントされたものを大事にしていたわけだからな」
「それで夏葉、泣いちゃったわけね…まぁそりゃ泣いても仕方ないよなー」
「ああ、まあ…泣いたというか激怒したというか…ただで起きはしなかったがな」
「ん?」
どういうことだと、それまでどうしようもなさげに頭を掻いていた高尾が視線で問い掛けてくる。
未だにもどかしさに歯噛みしている黄瀬も、再びこちらへ向き直った。
事件の現場は、その後どうなったのか。
その様子もオレはよく覚えている。
駒居夏葉の起こした騒動の中では確実に上位に組み込むであろう、狂乱極まった状況は今でも容易に思い起こせる。忘れられない光景だ。
激昂も極まったあいつの行動力は、目を瞠るものがある。
「壊されたペンダントを見ると、直ぐ様美術室まで駆け込んでペンキ缶を持ってかえって来てな。何をするのかと思えば、犯人グループに向かって撒き散らそうとしたのだよ…」
「ぶっは!!」
「な…っにしてるんスか駒居っち!?」
「実際に撒き散らす前に止めはしたが」
稀に見るほど怒髪天を衝いた夏葉に、敵う者はそうそういない。
汚い中身通り外見から油塗れにしてやる、と充血した目を吊り上げた形相に理性は残っておらず、正に鬼と称したくなるほどだった。
あれを思い出す度、本気で夏葉を怒らせるようなことはするまいと自分に言い聞かせている。
とにかく、大切なものに手を出された夏葉は何をするか分かったものではないのだ。
「羽交い締めにされても暴れようとする様はさながら野生の獣のようだったな。ペンキ塗れにできないなら顔面殴るか蹴らせろと…女とは思えない顔で威嚇していたのだよ」
「やべぇ…夏葉のマジギレやべぇ…」
「……いや、やっぱ強いんじゃないスか、駒居っち…」
笑っているのか怯えているのか判断のつかない高尾はともかくとして、話を聞いた黄瀬の表情は先程と違った意味で引き攣る。
やはり、こいつは何も解っていない。
溜息を飲み込みながら首を振った。
「強くなどない。それだけ傷付いたからこそ、傷付け返そうとしたのだからな」
「え…」
「耐えきれないほどってわけか。愛されてんねーその兄ちゃん」
へらへらとした笑みを浮かべながらも僅かに羨望をちらつかせる高尾は、自分もその位置付近に置かれている自覚は薄いらしい。
可能性の話ではあるが、オレや高尾程度の近さにいる人間なら、手を出されれば夏葉は同等に激昂すると思うが。これもわざわざ話して聞かせることではないだろう。
浮かんだ思考は、今はなかったことにした。
「そうだな。あまりに夏葉が落ち込むから、わざわざその兄にオレから連絡してやったほどだ」
「何だかんだ真ちゃん面倒見いいね」
「あいつが落ち込んでいるのは気味が悪くて慣れんのだよ」
昔から、兄の存在が関わらなければ何事にも動じないような幼馴染みだ。悄気返って臥せる姿など、似合わないにも程がある。
連絡を受けた夏葉の兄も妹に負けず劣らずの溺愛っぷりは相変わらずで、事の詳細を知って一週間もしない内に新しいプレゼントを送って寄越したらしい。
外れた瞬間に気付くだろう、存在感のあるシルバーのブレスレットを晴れやかな笑顔で見せびらかしに来た夏葉は、同封されていたオレ宛ての手紙を差し出してきた。
曰く、害虫駆除は難しくとも自分が帰るまで虫除けは欠かすな、と。
そう書かれていた旨を思い出して、軽く頭が痛む。
「次の帰国がいつかは分からんが…黄瀬は確実に潰されるだろうな」
「え、ええっ…!?」
「ただいまー…って、何大声出して青ざめてんの」
「お帰りー。今真ちゃんが夏葉ちゃんの兄貴の話してくれてて、オレらやべーかもなって話してたとこ」
「お兄?」
空いていたオレの隣にトレイを置きながら目を瞠る夏葉は、何故そんな話題が生まれたのか解らないといった顔をして席に着く。
一瞬向けられた視線にこちらが無反応でいると、特に詮索することもなく、ううんと軽く唸りながら宙を睨んだ。
「和成のことは大事な親友って話してあるけど」
「あれ、マジで?」
「うん。お兄も兄バカだし、ちょっとは気にしてたけど。和成なら辛く当たられたりはしないと思うよ」
真太郎のお墨付きでもあるし、と付け足す夏葉の意見には概ね同意できる。転校直後の不安定な時期から傍に付いていた高尾の評価は低くはないだろう。
「まぁ、黄瀬は分かんないけど」
「ぐっ…!」
正直な気持ちを吐き出す夏葉に、刃物を突き立てられたとでも言うように黄瀬が胸を押さえる。
罪悪感だけでなく、恐怖感にも襲われるだろう。好意を持つ者の身内から敵意を向けられるというのは、できれば味わいたくはない状況だ。こいつは既に手遅れだが。
「真太郎の助けがあれば話は別かもねぇ」
「するわけないのだよ」
誰が。
こっちは未だ消化できない憤りを抱えたままだというのに無茶な話だ。そんな気紛れを起こすことは絶対にないと、胸を張って言い切れる。
「緑間っちの鬼っ!!」
「いやー自業自得だろ」
心が広くない自覚はある。何とでも言えばいい。お前はそれだけのことをした。
簡単に許されると思うなと、燻る気持ちを飲み込んだままでいるだけ有り難いと思え。
オレがその思いを口に出さない代わりに、高尾のツッコミが的確に傷を抉る。テーブルに沈む金髪は、本当なら視界に入れたくないほどなのだ。
傾けたコーヒーは、甘いはずなのに渋くなる。
眉を顰めると、騒ぐ二人から視線を外した夏葉がオレの様子に気付き、自分の分のシロップを持ち上げて首を傾げた。
その手首を滑るブレスレットが光を反射させるのを目に入れながら、少しも陰っていない表情も確かめてこちらからも手を差し出す。
ありがとうと、滅多に言わない礼を紡げば、一瞬丸くなった夏葉の瞳はオレを写したまま、力が抜けたように細まった。
一人だけ穏やかな心地でいるのが夏葉なら、未だ燻っている残り火にも蓋をしてやれる。
あの日と今日を重ねればどちらの方が心地良いか、それくらいはしっかりと理解して、判断は下せるのだから。
君の涙は見たくない(てゆーか緑間っちだって男なのにフライングとかずるいっスよ!)
(スタートラインから逆走した奴に言われても痛くも痒くもないのだよ)
(んなっ…!)
(んー…でも確かに、真太郎のことはお兄も気に入ってるよね。結婚するならこいつにしろってよく言うし)
(はっ!? それはちょっと確かに真ちゃんずるくね!?)
(重ねた年数の重さだな)
(和成ならすぐ横並びしそうね)
(やっぱオレだけめっちゃ不利なんスけど…!)
(様を見ろ)
(緑間っち…!?)
20140707
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