幻想のアンタは、もう追わない。
そこにいない存在に手を伸ばすこともしない。
だから、現実を追わせてよ。
汚くて無様で泥だらけのオレを、笑ってくれても構わないから。
「都合よすぎっつーか…ねぇわーマジねぇわー面の皮厚すぎて逆に尊敬するわー」
「あっはは、よく言われるっス」
「褒めてねーよ?」
ばちばちと、目線からの火花が散るようだと傍目から思う。
私自身は特に気に留めずにワークにシャープペンを走らせていたのだけれど、テーブル越しに向かい合う幼馴染みはストレスフル。先程から眉間のしわがどんどん濃く刻まれていく。
「喧しい…」
「まー賑やかだよね」
「ちょっ待って。オレ黄瀬クンと一緒にされたくねーんだけど!」
「失礼っスねアンタ! 駒居っち! この人性格よくないっスよ!? 付き合い改めた方が無難じゃないの!?」
「ざーんねーん! 本人から男前認定貰ってますー! っつーかお前どの口が言うんだよ出てけよこっから!!」
「だから…喧しいと言っているだろう!! 騒ぐなら全員帰るのだよ!!」
「真太郎さん、自分が叫んだら意味ないよ」
女子が集まれば囂しいと言うけれど、男子も中々酷いものがあるな。
勉強会を理由に緑間家にお邪魔している手前、私もあまり強くは出られない。が、騒いでいないのに中断させられても困る。
苦手科目は幼馴染みに解説いただくのが一番効率的だと身に染みて解っているし、今更自分一人で勉強しても今まで通りの席次にはいられないことは自覚しているわけで。
今日だって、迫る試験の対策に恒例の勉強会を開いただけの話だったのに。
私以外ほぼ進んでいないテーブルに広げられたノートやワークを見下ろして、嘆息する。
「二人増えただけで悲惨なことになりそうだね」
「だからオレは嫌だと言ったのだよ…高尾だけでも喧しいのに何故黄瀬まで加えた」
「私加えてない。押し掛けられた」
「何故勉強会をするなんてこいつに漏らした」
「うっかり」
「夏葉ちゃんもっと警戒とかしよう!?」
「あああアンタ何どさくさ紛れに触ってんスか! 駒居っちから離れろよ!!」
肩を掴んで揺さぶられただけなのに。
友人との接触として何らいかがわしい部分はないのに、斜め前で腰を浮かせる新しい顔に呆れしか込み上げない。
もう、煩いっていうか、面倒くさいわ。
「大体黄瀬、オレはお前を許した覚えはないが。よくも当然のような顔をして夏葉に近付けたものだな」
苛立ちを隠しもせずに眼鏡を押し上げる真太郎の隣、私から一番遠い席に置かれた黄瀬は吊り上げていた眦を弛ませると表面的には無邪気な笑顔を浮かべる。
「ああ、もういいっス。許されないとかどーでもいいし。駒居っち自身に拒まれないならそれでいーかなーって」
あっけらかんとした返事に、私の隣からはうわぁ、と引き気味な唸りが漏れた。
「開き直ってやがる…」
「元々そういう人間だしね」
その笑顔の裏で、何を考えてるか解ったものでもないけれど。
どんな形にせよ、はっきりと定まった態度で悪意を向けられなければ強く拒む必要もない。
私が傷付くことがなければ、傍にいる二人だって常に敵意をさらけ出すわけでもない。
「平和に暮らせればそれでいいわ」
「って、駒居っちが言うからオレも平和になろうかと」
便乗してあざとく笑う男に、それはちゃっかりし過ぎだろと思ったのも嘘ではない。けれど、目に入る場所でうじうじされるよりは気は滅入らないし、マシなのは本当で。
気に入らないと態度に出しながらも直接叩き出したりはしない幼馴染みと親友が、私の意をどこまでも汲んでくれるのが素直にありがたかったりもして。
私も本当、愛されたものだなぁと思う。
実感の仕方が、意地が悪い自覚はあるけれど。
「オレらが啖呵切った意味ねーじゃん」
拗ねて膨らんだ親友の頬を空いた左手で突きつつ、そんなことはないよと口角を上げた。
歪で、友情なんてなくて、おかしな集まりでも、別段悪いものとは感じない。
正面で諦めたように深く息を吐き出した幼馴染みにも、私の表情はしっかりと見えただろう。
「とりあえず、勉強再開しよっか。黄瀬、基礎問が三問、応用が全問間違ってる。解説読んで解らないとこは訊ねなさい」
「うぐっ…は、はい…」
「うわー、マジで頭の方は弱いんだな」
「ぐうう…っ」
「高尾、お前も文法の使い分けがなってないのだよ。英文が滅茶苦茶だ」
「あー、ごっちゃになっちゃうんだよなー…点数は一応ギリ平均取れるし適当じゃ…」
「何事も人事を尽くせ」
「へーい…」
苦い顔をしながらもペンを握り直す二人と、漸く少し静まった部屋に再びテキストに目を落とす一人。
決して落ち着く雰囲気とは言い難い、けれど。
(まぁ、これもアリかな)
何もかも許して仲良しこよし、なんて夢物語は存在しない。
私が席を外せば、今にも諍いが始まりそうなこの状況。
それでも、とりあえず今のところはこれでいいかと。
決着は、ついてしまったから。
最初の恋は終わりを告げた私の前で苦い過去に別れを告げた男は、きちんと形を保てない感情と涙でぐしゃぐしゃになった顔に、笑顔を貼り付けた。
重くのし掛かっていた何かを吹っ切ったその顔は、今まで見掛けたどの表情よりも黄瀬涼太そのままの素の表情に見えた。
「ねぇ、オレ、解ったことがあるんスよ。アンタって変なとこ抜けてるよね」
軽く失礼なことを言われて眉を顰めた私が言い返すより早く、立ち上がった男は雨の中へと足を踏み出した。
「だからもう、いいや。アンタがそうなら、オレも。もう帰れないし、進むしかないし」
今拒まないと、と笑った。
黄瀬涼太は、賭けに出た。
「何も言わなきゃ、付け込むよ」
醜態を晒しまくって、震えを隠した声で、弱さも汚さも滲ませながらそう口にした男に、一度目蓋を伏せてから私も立ち上がった。
「できるもんなら、やってみなよ」
胸の中から、それを望まない二人の声が聴こえた気がしたけれど、仕方ない。耳を塞いでおこう。
初めて向き合った黄瀬涼太の挑戦から、今回は逃げる真似はしたくなかった。
とっくに終わった関係に漸くピリオドを打った男への、ほんの少しの誠意だ。
傘の中の私と、雨の中の黄瀬涼太。境界はまだ、はっきりと刻まれている。
「じゃあ、駒居さん、さよなら」
「ん」
「それから、またね」
「また会う前に風邪ひくよ」
いいから自己管理しろよスポーツマン。
何もかもぐちゃぐちゃになっている、みっともない顔の目の前の男が今をときめくモデルでもあるのだから、とんだ笑い話だと思う。
手を振って促した先でくしゃりと歪んだ表情は、この上ないものだったけれど。
「またね、駒居っち…!」
その頬を滑り落ちる水滴はきっと、愛惜の涙だった。
私がとっくに手離したものに、執着し続けた男の、最後の追懐だったのかもしれない。
しっとりと濡れて色を変えたブレザーが背中を向けて離れていくのを、暫く立ち止まったままで見送った。
終わりを告げた春を埋める、夏がやって来るのは、もう僅か。
* End *
20131206
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