彼女と初めて言葉を交わした日を、忘れられない。



中学に入学して暫く経った、夏の気配の近付く晴れた日。それは一人でいられる場所を探していた最中に、見つけた光景だった。

靴下と上履きを脱ぎ捨てて中庭の池に入り込んだ女子が、スカートに気を配りながら腰を屈めて足と同じように手先を水面に沈めていた。池の淵にはもう一人男子生徒が立っていて、何かの指示を飛ばしているように見える。

ばしゃばしゃと池の中を動き回る女子生徒の図に、興味を引かれたオレはその場で足を止めてしまった。



「どこよー」

「もう少し右だったはずなのだよ」



気にはなっても、知らない人間に話し掛けるのも気が引ける。ただ見続けるのも不躾な気がして、近付けないオレはギリギリ会話が聞こえるくらいの距離で、校舎と近場に生えていた木に身を寄せた。
それはそれで端から見れば不審だったとは思うけれど、何となく彼らから目を離すことができなかった。

女子は探し物をしているらしく、少し見ていればその目的物が男子生徒が落とした何かだということはすぐに解った。



「何で私がこんなことしてんだか…」

「仕方ないのだよ。今日のオレは水難に注意しなければならないのだから」

「もう既に水難だし」



呆れた口調で文句を言いながらも、投げ出しはしないらしい。
女子が男子の為にそこまでするか…と呆然と見つめてしまったオレは、別におかしくはないはずだ。
学校の池とはいえ、溜まった水は綺麗でもないだろう。よっぽど大事なものを落としたとしても、それなら男が自分で突入しそうなものなのに。

ウェーブがかった、肩にかかる髪を邪魔そうにふわりと揺らして動き回る女子は、口に出すほどその辺りには頓着していないように見えた。



「! 夏葉、そこだ、見えた、左だ!」

「はいはい左…あっ真太郎」

「? なん…っ!?」



ばっしゃあ、と大きな水飛沫を上げた水面に、近くにいるわけでもないのについ目を瞑ってしまった。

僅かな距離を移動した瞬間に池に落ちた男子は、咄嗟に踏ん張って着水したようだ。それでも膝上付近まで制服のズボンはは濡れてしまっただろうが。
衝撃に固まる男子を正面に振り返り、肩を竦める女子は肝が据わっている。



「そこ苔が濡れてて滑ると思う…って言おうとしたんだけど」

「遅いのだよ…!」

「えー私悪くなくない?」



寧ろ水飛沫を浴びた女子の方が制服の大部分が濡れてしまったように見える。
なのに、勝手に憤る男子を見上げた彼女は怒ることもなく吹き出した。



「いやしかし、水難だね」



笑い事じゃないと震える男子を促し、見つけ物らしき何かを片手に池から上がった女子は近場の水道までそのまま歩いて行くと掬い上げた水で手や足をすすぐ。
重い足取りで近付いてきた男子に手の中の物を渡したかと思うと、校舎から続くコンクリートに腰を下ろして足を伸ばした。



「何をしているのだよ」

「日干し。このまま中入ったら廊下濡らしちゃうし。軽く乾いたら私が着替え取ってくるよ」

「…そ…うか…」

「ん? 何? ちょっと申し訳ない感じ? 罪悪感なう?」

「うるさいのだよ!」

「否定しないのね」



けらけらと笑う女子に並ぶように腰を下ろした男子は、靴下まで脱いでズボンを絞りながら黙り混んでしまう。
仲がいいな…という感想を抱きつつ、ここまで見ていてそろそろ見て見ぬふりができなくなってきたオレは、気まずいながらも木陰から離れて歩き出した。



「あ、あのー…大丈夫っスか? よかったら適当にタオルとか、借りてこようか…?」

「え?」



さすがに、ここで声をかけないのもどうかと思うし。

男子の方は見かけたことがあった気がするから、同学年だと踏んで話し掛ける。
誰だこいつは、と言いたげな目を眼鏡の向こうから向けてくる男子に多少イラッときたけれど、オレを見上げたまま何かに悩むように眉を寄せて唸り始めた女子の反応の方が気になった。



「あー…えーっと……あっ、確か、き…黄瀬くん? だっけ。合ってる?」

「え、あ、ハイ…そうっスけど」

「あ、よかった。わざわざありがとう。悪いんだけど、お言葉に甘えてもいいかな」



あ、普通だ。

返ってきた反応に、心の中で呟いていた。

軽く手を合わせてお願いします、と人当たりのいい笑みを浮かべる女子は、オレの存在を知っていた。
最近始めたモデルの仕事の所為で校内では特に話題に出されていたから、女子に知られていることは珍しいことでもない。
けれど、そのことを知る女子の態度は遠巻きに見てくるかやたらと近くで媚を売ってくるかのどちらかで、他の男子生徒と同じように扱われるのは久しぶりなことに気付かされた。

近い距離でも、当たり前のように差別しない。男女の壁さえ感じさせない態度は新鮮で、気の置けないやり取りをしていた男子を羨ましく思ったことをよく覚えている。
その日以降、一年時には彼女と特別に接点を持つことはなかったけれど。

二年になって同じクラスになれても、ろくに会話をする機会は持たなかった。
入部したバスケ部で、男子の方とはチームメイトになって絡むこともあったけれど、やっぱり特別仲良くできたわけではなかったし、彼女の名前を聞いても話に混ざることもできなかった。



(だって、知ってた)



中庭であの日、初めて言葉を交わした時から、自然とその女子を目で追う自分に気付いた。
廊下ですれ違っても、同じクラスの友人に会いに来た時も、気付かれないのをいいことに観察してしまっていた。
だからこそ、彼女の性格や性質は、自分を気持ち悪く思うくらいにはもう、その頃には理解していて。

ああ、無理だなと。そう思ったんだ。



(前に、立てる気がしなかった)



正直者なところ。目敏いところ。賢いところ。強かなところ。
性格がいいわけでもないのに、人に好かれる彼女に近付ける気がしなかった。近付くのが躊躇われた。
オレは、自分が好かれないだろうことを理解してしまっていた。

自分にとっての価値の有り無しで、人を差別する癖を自覚していた。
外面に夢を見て寄ってくる女は馬鹿にしていたし、いつだって適当に優しいふりをしてあしらってきた。
僻みや妬みで勝手に敵意を持ってくる男だって見下して、必要とあらば笑顔すら浮かべてそのプライドを踏みにじるような真似だってしてきた。

汚いのはオレだけではなかったとは思う。そんな風にでもしていないと、傷付いて仕方なかったと言い訳だってできる。
けれど、自分の汚さや冷たさだってちゃんと知っていた。だからこそ、暴かれることを恐れた。
視界に入れられた上で、切り捨てられるのが怖かった。

当たり前だ。誰が好き好んで人に嫌われようと思うんだ。それも、呆れるくらい気になっている相手に。
だったら知られずに、視界に入れられずにいた方がずっとマシだ。

だからどうか気付かないで、暴かないでほしかった。
軽蔑されるのが怖くて、見られたくなくて、知られたくなかった。
きっと視界に入ってしまえば、聡い彼女はすぐにでもオレを見抜いてしまうだろう。だから、自分から近付くような真似もしなかったし、話し掛けもしなかったのに。

それなのに、俺の都合も気持ちも知るわけがない彼女は、無知だからこそこの上なく残酷だった。



「あー…私はパスかな。性格悪そうだし」



嫉妬心を塞いでいた蓋を、たった一言で容易く剥がされた。
淡々と事実を語る彼女はオレのことを暴こうともしなかったくせに、既に看破していて。
その瞬間に込み上げた悔しさや怒りに、ぐちゃぐちゃに掻き回された心は元の形も忘れて歪んでしまった。

ああ、だから、嫌だったのに。
こんな思いをしたくなかったから、たくさん、たくさん、オレだって我慢したのに。

抑えきれなくなった感情は周囲を巻き込んで、傷付いた分彼女を傷付け返す。一瞬で掌を返す友人達の姿に、彼女は絶望しただろうか。
何より避けたかったことが起こってしまって、絶望したのはオレの方だったかもしれない。

別に嫌っていたわけではないと、彼女は最後に口にしたけれど。
好きでも嫌いでもなく、その程度だと、言われてしまうのがオレは、一番怖かったのに。



「あんたは、見破られるのが気に入らないんでしょ」



最後の最後、どこまでもオレを暴ききった彼女は清々しい笑みを浮かべて口にした。
でも、失望されることを一番恐れていたオレの本音には、気付いてくれなかった。
気付いてもらえるわけも、なかった。

今でも、一人で抱え込んで痛がるオレは、終わりを待っているふりをして終わらせたくないと藻掻いている。
元になる関係も持たなければ、戻ることもできないのに。



「また、看破、されちゃった」



締め付けられた胸が苦しい。連動するように痛む頭に腕を当てて、ベッドに仰向けに寝転がったまま呟いた声はしんと静まる室内に溶けて消えた。
黒子っちも鋭い人だと解っていたのに、縋ってしまった自分のミスだ。

もう戻れないのに、今更掘り返して見せつけられるなんて、どんな嫌がらせだろう。なんて、オレに言えた台詞でもないけれど。
これまで三年近く見ないふりをして堪えてきたものを、今度は的確に暴かれた胸は、開いた穴から冷気が滲んでじわじわと凍り付いていくようだった。



(もう、何処にも)



今更、でも何でもない。最初から行き着く場所なんてなかった。
終わりは、見えていた。見ないふりをして立ち止まっていたのはオレだけだ。
それだって本当は、知らないふりをしていただけなんだとも。
どこまでも臆病な奥底を目の前に突き出されて見せ付けられて、身体中が軋む。

痛い。苦しい。辛い。もう嫌だ。
こんな気持ちになるくらいならもう、何もかも消えてしまえばいい。
こんなに辛くなるくらいなら、過去も今も要らない。最初からなければよかったのに。

熱くなった目頭から、冷たいものが頬を流れ落ちた。
それは歪んでしまった、本音の欠片だった。






騙し騙しに生きました



強がって、騙してしまわなければいけなかった。
言ってしまえば、自覚してしまえば。
それこそ諦める手立てしか、浮かばなかったから。

20131112

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