incidental | ナノ


本編完結後





世界にたった一つ、寂しさがあった。

情や優しさなんて一切存在しない状況下、伸ばされた手は微かに震えていた覚えがある。
絶望や不安のどん底にいたはずの自分よりも、笑っているのに泣き出しそうに見えた顔も、簡単には忘れられない。






もう特徴すらはっきりとは覚えていない実の母親が、自分の前から姿を消した時のことは、夢のように霞んでしまったが、ぼんやりとは思い返すことができる。
子供一人くらいは入りそうなボストンバッグを抱えて出ていく女の後ろ姿を見る前に、「お腹がすいたら食べるのよ」と渡された紙袋には、溢れるほどの菓子パンが詰まっていた。
嫌な予感は、子供ながらにしていたと思う。何かが起きていると、普段から纏っていた苛立ちを収めた母親を見れば分かった。だから、「いつかえってくるの」と、その時のオレは訊ねたのだ。



「すぐ帰ってくるわ」



答えた母親は、その朝に別れてどれだけ夜を越しても、帰ってこなかった。

水道は使えた。電気もガスも、多少は保った。いつ帰ってくるか分からない母親を待つために、パンは一日半分と決めて、腹が減れば水を飲んでは食い繋いだ覚えがある。
邪魔になったとはいえ子供を飢え死にさせるのは心苦しかったのか、法に反するほど自暴自棄にはなっていなかったのか…それとも、ただの気紛れか。母親だった女の気持ちは今でもよく判らないが、食料がなければ更にまずい状況に陥っていただろうことは確かだ。そこのところだけは、最後の良心には少しは感謝しなくもない。
恐らくオレは、普通より察しがいい子供だったのだと思う。身体が未発達だったこともあって難しいことはそれなりにあったが、子供の目や手でも届く部分なら家事もできた。母親が教えてくれなくても最低限の生き方、生活の仕方はその頃には知っていた。帰ってこない母親を待ちながら、空腹だけを誤魔化して、あとは普通に入浴を済ませて普通に寝て起きてを繰り返した。
“すぐ”って、どれくらいだろう。毎晩考えながら眠っていた。

けれど、どうするべきか迷った結果学校にだけは行かなかったから、その所為で緊急連絡先に知らせが入ったらしい。十日ほどは、経っていたのだろうか。閉め切られたままだった玄関のドアを開けて入って来たのは、待っていたはずの母親ではなく、一応何度か顔を合わせて父親だと教えられた男だった。

これ以上待っていても、もう母親は帰ってこない。
そう、薄々感付いていたことを、置き手紙を見付けたらしい男の口から知らされた。
諦めて納得するのには、時間は要らなかった気がする。
とうとう独りぼっちになった。いや、理解したくなくて、答えを知りたくなくて何も考えない様にしていただけで、最初からそうだったのかもしれない。
そう不思議にも思わなかったから、それが事実だと本心では解っていたのだと思う。元から、親への信頼も薄かった。けれど、全く信じていなかったわけでもなければ、犇々と感じる孤独、その先に待ち受けるものには当然に不安を覚えた。
自分はこれから、どうやって生きればいいのか。いざという時、誰に助けを求めればいいのか。
幼いながら、漠然と、世界に一人も自分の味方になる誰かがいないことに気付いて、心臓が凍るような思いをした。

全身が空洞になってしまったかのような孤独感は、けれど、その日の内に無理矢理に埋められることになる。
少ない荷物を纏めて、父親だという男の車に乗せられて、辿り着いた一軒家に住む見ず知らずの親子の中に放り込まれた、そこで。
酷く歪んだ、残酷な出逢いが待っていた。



「名前、何ていうの? 私はね、なつる。白雲なつる」



たった一人、現状から目を逸らすことも拒むこともせず、真っ直ぐな目をして近付いてきた少女の声は、耳に心地いい柔らかなものだった。
突如動いた状況に適応できず、どう動けばいいのか判らずにいたオレの拳に、同じくらい幼い手が重ねられた。
久しぶりに触れた人のぬくもりに、胸から喉にかけてがぎゅっと引き攣った。嬉しそうに、どこか飢えた目をして微笑む相手にしがみついて泣き出してしまいたくなったことを、今でも綺麗に思い出せる。

あの人に関してだけは、どんな記憶も鮮明に蘇る。
オレよりも少しだけ背丈があったその人は、ガラス玉のような目をしていた。それは鏡を前にした時に見ていた自分の目と、まるきり同じものだった。



「私と、家族になってくれる…?」



怒りと混乱と悲しみと…そんな負の感情ばかりが取り巻く中で、背後で起こる両親らしい人達の諍いをないもののように扱って、その人は笑っていた。健気に、寂しげに、それでいて二つのガラス玉だけは爛と輝かせて。
おかしかったと言えば、おかしかった。きっと、オレもその人も疲れきっていて、おかしくもなっていたんだと思う。既に、歪んだ子供だった。それでも目を合わせてくれた人が久しぶりだったから、オレは掬い上げられた気持ちになって。同じように、オレの持つ何かが、恐らくはその人の琴線に触れた。

迷いながらも、頷いた。寂しかった。苦しかった。悲しかった。独りにはなりたくなかった。抜け出せるなら今すぐに抜け出したかった。
その気持ちを知っているような顔をしたその人なら、手を繋いだら繋いだまま、離したりはしないだろうと思った。独りきりよりは二人きりの方がずっといい。胸を、喉を掻き毟りたくなるような気持ちが、少しでもなくなるのならそれでいい。
希望と打算で動く手で、強く強くその人を捕まえたことは、今だって後悔はしていない。

引っ越しをして、一人部屋を与えられて、環境ががらりと変わった。学校も転校することになった。新しくできた両親からは時折嫌な目を向けられることもあったけれど、腫れ物のように扱われても、たった一人の“家族”が傍にいてくれたからそこまで堪えなかった。そもそも、子供として触れてもらえないのはオレだけじゃなく、姉になったその人も同じだった。
それでも、自分も一歳しか違わない子供のくせに、限界まで背伸びをして小さな身体を精一杯使って、その人はオレの心まで守ってくれようとしていた。嬉しかった。苦しくなるくらい、大事に思った。
姉となったその人は、母のようで、同い年の女子のようでもあって、家族であって、他人な部分もあった。やがて、独りに戻りたくない気持ちよりもその人を守り返したいという気持ちが芽生えるようになるまでも、そう時間は掛からなかった。
生涯をかけても、その人の全てに手が届くことはない。そんな事実も、同時に思い知らされはしたが。









「よっ」

「……何でいるんだよ」



部活後、自主練と称して充分に時間を潰して出てきたオレを迎えたのは、通り過ぎようとした校門に寄り掛かっていた幼馴染みだった。
ひょい、と挙げられた片手と見た目は軽薄な笑顔に、疲れていた身体に更に怠さがのし掛かる。
周囲に知人がいないのをいいことに思いきりうんざりとした顔を返せば、慣れた動作で肩を竦めた彼方は門から背中を離した。



「冷てーなぁ。久々に一緒に帰ろうぜ、弟よ」

「誰が弟だ」

「お、ま、え。なつる迎えに行くの止めたんだろ? 寂しい弟分のために優しいお兄様が慰めに来てやったんだよ。感謝しろ」

「くっそうぜぇ」

「口調荒くなってんぞー」



なつるがいないとこれだからなぁ、とぼやく幼馴染みとは、お互い扱いには慣れたものだ。
わざわざ他校にまで何をしにやって来たのか…推測できないほど浅い付き合いでもない。

口調程度で気に入らないのなら来なきゃいいだろ暇人、と悪態を吐いてやることだけはできないのが、こっちも気に食わない。
苛つくことだが、実際そこまで暇を持て余すような生活をこの幼馴染みが送っていないことはそれなりに知っていた。
それなのにオレに時間を割くのは、大方、弟分が放っておけないとか何とかいうふざけた理由だろう。たかが幼馴染みが、わざわざ構いに来る義務はないのに。必要だともこっちは言っていないのに。

態度を和らげないオレに並んで勝手に歩き始めた男は、多忙さを気取らせることも気に掛けさせることもない。昔から、人付き合いの器用な男だった。
重苦しい感情の見当たらないスッキリとした横顔に、苦いものが込み上げる。理由なんて語るまでもない。兄のような顔をして他人の位置に立つ男に劣等感や敗北感を感じるのは、今に始まったことじゃない。



「いや、でも本当久し振りだな。中学途中までは三人時間合わせて帰ってたし、ちょっとばかり懐かしい」

「感傷に浸るのはいいけど一抜けしたのはお前だからな」

「ぐっ…いや、しゃーないだろ。そこら辺は、その、オレにも都合があるんだよ!」

「別に」



不味いことを言ったとでも思っているのか、幼馴染みの声に焦りが混じる。別に、本気で責めるつもりなんてないのに、罪悪感でもあるのだろうか。だとしたら笑える話だ。どこまでお人好しなんだろうか。
他人に求めるには行き過ぎた我儘を抱えているのは、こっちの方なのに。



「人間、いつかは離れるもんだろ。タイミングは間違ってないし。大事な人がいるなら大事にすればいい」



それが、自分の姉であってほしかった、なんて、それこそ身勝手な我儘だ。

一番大事な人を、一番大事にしたい。そう言い切った幼馴染みがはっきりと、一番とそれ以外の線引きをしたのは、一つずつ年の差がある三人の中で一人だけ高校に入学した年のことだった。
姉と幼馴染みの間には確かに切れない絆があって、それでもそれが恋愛に繋がるものじゃないことは端から見ても理解できていた。もしかしたら、彼方なりにオレに気を遣っていた部分もあるかもしれないが。どちらにしろ、二人はお互いを選ばなかった。姉は何時いかなる時も、弟であるオレを優先した。

どうしたかったんだろう。どうなれば自分は満足できたのだろうと、今でも考える。
本当は、彼方だったら、姉を任せてもよかったのか。八つ当たりをしても許されるから、それがよかっただけかもしれない。姉が一番大切にするようになる人がお互い知りすぎているくらいよく知る幼馴染みだったら、一番許したくなくなっていた可能性も高い。幾つも絡まった本音はぐちゃぐちゃで、昔からずっと、綺麗に纏まらずに内臓を掻き回してくる。

この男が、オレまで大事にし過ぎるところがあるのは知っている。姉を選んだとしても、姉だけを大事にすることはないような気もした。



「よし。海、行こうぜ」

「…は?」



ぼうっと、隣を歩く存在についてつらつらと考えながら帰路に着いていると、不意に思い付いたと言わんばかりに、前振りもなくそいつが手を叩いた。



「海だよ海。放課後に海って青春っぽいだろ」

「この微妙な季節に好き好んで近付くような場所じゃないだろ」

「潮風がオレを呼んでいる」

「気のせいだ」



いきなり何を言い出すんだこいつは。

いつもながら突拍子もない男の提案に思い切り顔を顰めるのに、気にした様子もなく腕を掴んで引き摺ってくる。
まさかと思ったのに、本気を悟って、同時に表情筋が引き攣るのを感じる。
海とか、馬鹿じゃないのか。馬鹿だったな。知ってたけど。何を考えているのかたまに理解できなくなるくらい、突拍子もないことをやらかす幼馴染みだ。
部活を終えて、気が済むまで自主練まですませた後で、もうそれなりにいい時間帯だというのに。無駄に強く握られた腕からその手を引き剥がそうとしている間に、走り出したら止まらない、暴走機関車は空いた片手に携帯を準備していた。



「あー、なつる? ちょっと今から颯借りるから、こいつ帰るの遅くなるわ」

「! おいっ」

「ん? おーおー了解。ちゃんと夕飯時には返すから心配すんな。んじゃな」

「彼方てめぇ!」

「おう、保護者の許可は頂いたぜ」



これで何も心配はないだろ、と胸を張るそいつに、目眩がする。
短いやり取りの後に通話を切ったそいつを、殴らなかった自分を誉めてほしいくらいだ。勝手に、人の姉に約束を取り付けやがって。

今日は、多分両親は帰ってこない日だったはずだが。
だからと言って、姉を家に一人きりで置いておく時間は好きじゃない。寂しい思いは極力させたくないのに、そんなオレの思いも見透かしているはずの幼馴染みは肩を竦めただけだった。



「いーだろ別に。お前もお前で息抜きはいるし、どうせまだ戸惑ってるんだろうしさぁ」

「何の話…」

「なつる、あいつと付き合いだしたんだってな」



一瞬、返答に詰まって声が出なかった。それだけで、充分な答えになると分かっていたはずなのに。
舌打ちを返したオレの反応を馬鹿にするでもなく、彼方は溜息を吐く。



「まぁ、何だ。一人だけ他校に入学しちまった薄情な弟に、わざわざ会いに来てやったオレを蔑ろにしてくれるなよ」



なつるは言わねーけど、微妙に避けられてることは気にしてそうだし。

真新しいオレのものとは誂えの違う学ランを着た幼馴染みの言葉に、うまい返事は浮かばなかった。
仕方がない。最近になって距離の取り方を模索しているのは事実で、少しくらい避けていると受け取られることも、おかしくはない話だ。
掴まれていた腕から手を離されれば、無意識に唇に歯を立ててしまう。誘導されているようで、腹立たしい。これでもう、幼馴染みを置き去りにして帰るという選択肢を選べなくなった。
オレに構いたいだけなら未だしも、姉を気にした発言をする奴を無視できるはずもない。
まだ夜は肌寒さを残す四月の中旬、海に向かうと言う幼馴染みに、従うより他に道はなかった。









 *




いつか、訪れると知れていたことだ。その日が訪れただけのことに、胸を締め付けられるなんて馬鹿のすることだと思う。
どうしようもないと知った日から、諦めはついていた。それでも言葉にならない感情が身体の中心に滞るのは、単にオレ自身が未熟だから、だと思う。

死ぬほど胸が痛いとか、身を引き裂かれる思いがするとか、そういったことはない。
ただ、想像していたよりも喪失感が酷かった。それだけだ。
誰かに傷付けられたわけでもない。悪い人間がいたわけでもないから、当然恨む相手もいなかった。



「失恋したらとりあえず海で叫んどくだろ」



失恋、とか。



「それなら、とっくに終わってる」



電車を乗り継ぎ、辿り着いた海沿いの公園は、時間が時間だからか人影はちらちらとしか見当たらなかった。
それでも、馬鹿みたいに叫ぶ気にはなれない。出来るはずがない提案をしてきた幼馴染みに対して、取り繕うこともせずに投げ遣りに返せば、今度は思いきり鼻で笑われた。



「ハッ、嘘吐け。なつるはなつるでべったりだったけどな、お前だってまだまだ相当だろ」

「煩ぇ」

「そんなに簡単に割り切って捨てきれる気持ちなら、お前の方がさっさと好きな奴でも彼女でも作ればよかっただけの話」

「るせぇっつってんだろ! 聞けよ!」

「いっ…てぇぇ!!」



慰めに来たとか言ったくせに、抉りに来たの間違いじゃないのか。
迷わず地雷を踏み抜いてくる男に我慢なんて利くはずがない。振りかぶった拳を迷わずその顔にぶち当てれば、踏鞴を踏んだそいつはすぐに体勢を立て直した。
流石、伊達に打たれ慣れていない。尻餅でもつかせてやろうかと思っていただけに、悔しさが残る。



「おまっ、だから、お前いい加減オレへの手足の早さどうにかしろよ! 殴る相手違ぇだろ!!」

「違わねぇよお前だろ! 人の弱味抉って何が楽しいんだよ!」

「アホか全く楽しくねぇわ!!」

「じゃあ煽るなマゾかお前は!!」

「なわけないだろ! 至ってノーマルだっつの!!」



もう一発くらい殴ってやりたい。若しくは汚れきった海水でも掬って浴びせてやりたい気分ではあったが、立て続けに声を張り上げたことで少しずつ頭も冷えていく。
人気が少ないとはいえ無人でもない場所だ。通り掛かる他人の視線を受ければ、自然調子も落ちる。残るのは、失恋云々は置いておいても、結果的に叫んでしまった自分への嫌悪感だけだ。

くそ、嵌められた。気付いて、顔が歪むのが分かった。
煽った側の幼馴染みは、拳を受けた頬を擦りながら恨みがましい目を向けてくる。



「あーくっそ、口切れた…これだから腕っ節にかける喧嘩は嫌なんだよ」

「悪かったな。お前相手じゃ喧嘩にもならねぇよ」

「へーへー。慣れてなくてすんませんね」



慣れる以前に、殴り返すことをしないだろ。
そんなツッコミは今更なので、口にも出さない。何のポリシーか、昔から絶対に自分から手や足を出してこない幼馴染みは、受け身だけが異常に上手いのだ。
今も、殴る瞬間に顔を引いたんだろう。本当なら歯の一本くらい折れていてもおかしくない。

オレにとっても都合のいいこと、なんだろうが。それがまた、微妙に腹立たしさを煽りもする。
歯噛みするオレを少し離れた距離から眺めてくるそいつは、まぁでも、と軽い調子で切り換えた。



「同じように殴ってやりゃいいと思うぜ」

「できるか」

「何で。いいだろ、お前には名目があるんだし」



誰を、なんて訊くまでもない。
だからこそ、出来るわけがないことを言うな、と思った。
恨んでも嫌ってもいない。煩わしく思うでもない。確かにあの人の助けになってくれる存在を、どうして害せると思うんだ。

出来るわけ、ないだろ。
繰り返し吐き出した声は、自分のものと分からないくらい掠れた。



「大事な女を持ってかれるんだ。腹癒せでも活入れでもいい、一発くらいキッツいのくれてやれよ」

「お前が…」



お前が言うな。
お前だったら、今みたいに、好き勝手に殴れた。纏まらない気持ちも繕わずにぶつけられた。
一番大事な人を奪われた、と恨めた。最後にはどうせ、許すこともできた。

そう責め立てたくなるのを、堪えるために息を止める。



(違う)



違う。そうじゃない。
人の気持ちは他人が書き換えられるものじゃない。
彼方には彼方の大事なものがあって、それはオレの一番大事なものとは一致しなかった。どうしようもない、仕方のないことだと分かっている。本当は。

分かっているから心が散らかったままで、整理がつかないのだ。
疾うに諦めていても、儘ならなさに藻掻いてしまう。都合のいい展開を求めて、その度に、そんなものはないことを思い知らされる。
ずっと二人では生きられない。自分があの人を、最後まで幸せにしてやることができないのは、分かっているから。
それでも誰よりも大事にしたい気持ちが消えないから、手離し難くて辛くなる。



「殴っていいだろ。お前が、気持ちで負けるはずねぇんだからさ」

「……煩ぇっつってんだろ」



こいつのこういうところが嫌いだ。昔から事あるごとに、オレにまで鬱陶しいくらい構ってくる。
自己中心的と見せ掛けたお人好しは、他の誰よりオレや姉の中身をよく知っていて、ずけずけと突っ込んでくることにも躊躇わない。外に出すには恥にしかならないような本音を、勝手に暴いて赦そうとする。
無駄に器用で感情の発散が上手い。絶対に負けたくないのに、上手に立てない。
だから、出逢ってからこれまでずっと、オレは櫛木彼方という人間が大嫌いだった。

黒々とした波が防波堤に打ち付ける音は、微かな声くらい容易に飲み込んで消してしまう。そこで初めて、街灯から一番遠い距離にまで連れてこられていたことに気付いた。
泣いても許されるようお膳立てされた状況に、舌打ちしか出ない。



(余計な)



ああ、本当に嫌いだ。余計なことばかりして、鬱陶しいとも思う。
何も知らないくせに好き勝手言うな、と詰ることができたらどれほど楽だろう。素知らぬ顔をして立つ男は、馬鹿にできるほど遠い場所にいない。
同じ、不幸という土俵に立てはしないくせに、誰よりも近くに寄ろうとしていたことを知っている。姉は勿論、オレにも伸ばされた手を見てきた。今だって、同じだ。

だから、無駄に期待するんだ。馬鹿じゃないのか。
オレが参ってるのはお前の所為でもあるのに、勝手言いやがって。



「色々、溜まってるの伝えて消化しろとか、言ってるわけじゃねぇよ。それは流石に残酷だろうし、お前の気持ちは混ざり合って複雑過ぎるもんなんだろ」



知ったような口を叩くのは、実際知っているからだ。
そう、オレだって、知っている。



「母でも姉でも他人でも女でも…全部が全部帰結する場所が一人しかいないってのは、しんどいな」

「…分かった口利いてんな」

「いや、だって黙ったらお前泣くんじゃないかと思ってな。これでも一応気を使って…」



分かられたいなんて、言った覚えはない。いっそ、誰にも知られずに溜め込んで、一人でどうにかしたかったくらいだ。
名前の付かない、どろどろとこびりついた執着は、絶対にあの人にだけは見せられない。あの人以外にも、本当は誰にも、見せたくなんてなかった。

目蓋が、ぐっと熱くなる。喉がひりついて声が上ずりそうになる。普通に聞こえていたはずの幼馴染みの声まで、僅かに遠くなる。
咄嗟に顔を俯けた所為で相手の表情までは判らなかったが、小さな唸り声の後に聞こえてきた声は困ったように萎んでいた。



「…今回はオレが悪かった。スマン。突き過ぎたな」

「お前は、いつも、悪い」

「そーか」



そりゃ悪かったな。
大きな溜息の後に、頭に乗ってきた手に、雑に掻き回された。
何度振り払っても戻ってくるそいつの手を跳ね返しながら、この強引すぎる優しさが、やっぱりどうしたって嫌いだと思った。






あの人に対して抱いた感情が何なのかは、今でも明確には判っていない。
恩愛、友愛、親愛、性愛、隣人愛、それとも私愛か憐れみか。もしくは慈悲か、慰めか。存在こそが愛だとでも語るか。そんなことをまともに考えるのも、馬鹿馬鹿し過ぎて笑えてくる。

姉とする人に、心酔していたわけじゃなかった。無条件に目を眩ませるほど純粋だったわけでもない。
あの人の、弱さも穢さも狡さも身を持って知っている。最初から、オレのためだけに手を伸ばしてくれるような慈しみに溢れた存在じゃなかった。けれど、だからこそ、目を離すこともできなかった。
今更、この感情に、恋だとか愛だとか、其処彼処に蔓延る名前を付けるつもりは欠片もない。一言で終わらせられたら堪らない。そんなに単純な想いじゃない。

ただ、世界にたった一つだけ、寂しさがあった。
それはオレが感じていたものととても似ていて、一つが二つになれば、重ねたり分け合ったりして軽くできるものなのだと、出会って間もなく知ってしまったのが始まりだった。

寂しかった人だと分かっている。自分の傷を癒そうと藻掻いて、苦しみを取り除きたくてオレを必要としたような、あの人だって我儘な子供だったと記憶している。
それでも、心身共に弱りきっていたガキには充分な温もりだった。正しい形の愛情を欲しながら、同じだけを与えてくれようとしていた姿も知れば、綺麗だとすら思う。恨むことなんて、当然できるわけがない。

我儘な人でも、質の悪い部分があったとしても、誰よりも優しくなろうとしてくれた。大事にしようとしてくれたのは、紛れもない事実。
白雲なつる。その人だけが、誰にも顧みられなかったオレを愛そうとしてくれる、たった一人の存在だった。



(仕方ないだろ)



仕方ない。責められるような話じゃない。曲がりくねった道でも、避けられないものは避けられない。
大事にしたいと思う…歪んだ願いだって何だって、叶えてやりたいと思ってしまうことは、おかしなことではないはずだ。

オレを利用しようとした罪悪感が、あの人には確かにあったんだろう。
だけど、それだけじゃなく単純に、時間を重ねていく間に生まれた情や関係性は、ただ…ただ、本当に、笑えるくらい、不安定でも居心地がよくて。あたたかくて。
そんな風に、優しさを持って接してくる相手を、愛しく思わずにいられるほど、オレだって大人になりきれない。
大事にされるだけ、大事にして返したい。愛されるなら愛し返したい。出来ることならずっと、この時を続けていたい。
そう思うだけなら至極全うな思考なのに、永遠の約束だけが、自分の立場の所為で手に入らないことが決まっていた。

何で、あの人は姉で、オレは弟だったんだろう。
歯痒く思ったことは一度や二度じゃない。
だけど、姉であったから傍にいられたし、弟だったから守れたものだって絶対に存在した。彼方には出来ないことでオレが出来たことも、きっと少なくはなかった。ちゃんと、あったはずだ。
それを、無駄だったと、なかったことにはしたくない。噛み合わないまま、ガタがくるまで必死に支えあった時間は、オレにもあの人にも確かに必要だった。歪でも、たった一つ、ずっと握り締めてきた絆には違いないのだから。



(仕方ない)



だから、仕方ないんだ。手に入れたものと、手に入らないもの。どちらの結果も捨てきれないから、両方抱えて藻掻くしかない。

まだ、一時は、オレの中のたった一つの場所にはあの人が居座り続けるんだろう。いつか同じくらい大事にできる誰かが、その椅子を譲り受ける時までは。
それでも、いつか訪れると知れているその日にも、あの人は笑って、幸せでいてくれればと思う。
世の中の理を捨てた選択をしてしまわないように。どうか、誰よりもあたたかい場所で生きてほしい。
二度と、身の凍るような寂しさに身を置かずに済むように。
世界で一番、大切にされてほしい人だから。






愛すべし




「颯くん」

「どうも」



他校に入学してからは頻繁に迎えに通うのを控えていた、新設校。目当ての人物が此方に気付いたのを確かめて、寄り掛かっていた外壁から背中を離した。
辺りに姉の影がないところを見ると、委員か何かの仕事に追われでもしているのかもしれない。いないならいないで、わざわざ遠ざける手間が省けてオレにとっては都合がよかった。

校門前で待ち合わせることが多いらしいとは、お節介な幼馴染みから齎された情報だ。何もかも見透かされているようで苛つくが、今回ばかりは役に立ったと言っていい。



「お久しぶりです。なつるさんに何か、急用ですか?」



軽い会釈を交わした後、躊躇いなく近付いてくる男の顔には嫌な雰囲気は少しも見当たらない。

ああ、やっぱり無理だ。
密かに、最後まで迷って握り締めていた拳を解いて失笑した。



(食らわせられるわけがないんだよな)



腹癒せに一発、なんて。彼方でもなければ、無理だ。
あの人が初めて得た、安心して弱味を曝け出せる他人を相手にして、無体を働けるわけがない。
そんなことをしてしまったら、オレがあの人を泣かせることになる。それでは本末転倒だ。



「いや。今日は黒子さんに用というか……姉ちゃんとのこと、おめでとうございますって言えてなかったんで」

「……すみません。ありがとうございます」

「何でそこで謝るんですか」

「何で、と言われると難しいですけど…」



空気に溶け込みそうな色の頭が、傾く。少し逡巡するように逸れた眼は、もう一度戻ってくる時には真摯な光を湛えていた。



「なつるさんを大事にする人から、奪ったようなものだから、ですかね」

「……そうですか」



ああ、くそ。此方もか。
悟られるほど明け透けだったかと、軽く痛む頭を押さえた。
正直居たたまれない。が、オレのことはどうでもいい。頭を振って、思考を切り換える。

この人なら、大丈夫だろうとは思っている。
今まで相当大事にされていなければ、姉だって心を開くことはなかったはずだ。
あれでいて頑固で、誠実な人だから。迷って苦しんで考え抜いて、オレとこの人を天秤にかけたこともあっただろう。容易に想像がつく。
だから、もういい。寂しく辛く思っても、どうせあの人とオレは“家族”だ。他人と比較するには土俵が違うと、心から納得する日が来ただけのこと。

オレに与えられる猶与があの人の幸福な時間と引き換えなら、そんなものは必要ない。虚勢でも何でも張って、言い切ってやろう。
あの人が幸せなら、オレだって幸せになれる。



「一つだけ、お願いしてもいいですか」

「はい」



あっさりと頷いてくれる人に、少しだけ安心した。
迷わず、信用できるようになりたい。できれば、こんな思いは一度きりで済ませたいから。

震えそうになる喉を抑えて、深く息を吸った。



「あの人を泣かせるな、とは言いません。わりと涙脆いし、泣いた方がいい時もある。……けど、裏切ったり、死ぬほど寂しい思いだけは、させないでください」



絶対。これだけは絶対に、守ってもらわないと困る。
オレが十年近くかけて必死に守ってきたものを、簡単に壊されたら堪らない。

一番大切なものを譲るんだ。確約くらい、残してほしい。



「じゃないと、オレ、あなたを殴り殺すかもしれないんで」



本当に、犯罪者にだってなりかねない。あの人のためなら何を仕出かすか分からない。自分のことが信用ならないくらい、長年溜め込んできた繋がりは重く深い。
迷惑にだけはなりたくないと思ってはいるが、我慢が利かない時もあるかもしれない。

低く絞り出した脅迫に、ぱちりとその目を瞬かせた男は、オレの中に巣食う衝動を確かめて間を置かずに応えた。
はい、と。しっかりとこの目で確認できるように頷いた。



「肝に命じておきます」



その答えを聞いて、一気に肩の力が抜けた。



「あれ、颯…?」



ちょうどその時、タイミングを読んだかのように、掛けられた声に視線を動かせば、校門を抜けてすぐの姉が目を丸くしながら此方を見ていた。
高校入学以降は迎えにも来ていなかったから、驚いたんだろう。自分の心に収拾のつかない状態で鉢合わせたくなかったから、避けていた。それもこれからは、遠慮に変わるのかもしれない。

何かあったのかと、心配そうにしながら近付いてきた姉には首を横に振って返した。



「何も。友達と出掛ける途中で通り掛かったら黒子さん見付けたから、ちょっと話してただけ」

「そう…? ならいいけど……あ、帰りは?」

「そこまで遅くならないと思うけど…別に姉ちゃんも焦って急がなくていいから」



暗に、邪魔はしない、という気持ちを込めてそう言えば、微妙なニュアンスには気付いてくれたらしい。やり取りを見守っていたもう一人に目をやった姉は、すぐにまた視線を戻して頬を赤く染めると俯いてしまった。

最近になって見掛けるようになった表情には、まだ慣れられていない。あまり突くと墓穴を掘ると分かっているから、すぐにでも立ち去ろうと鞄の持ち手を握りなおす。



「じゃあ、そういうことで」

「はい。また」



口籠もる姉を微笑ましいもののように見つめていた男が、その眼差しを解いて本日二度目の会釈を返す。隣り合って並ぶ二人の図は、贔屓目に見なくても充分似合いと言えるだろう。
そんな光景を目にすれば、オレにしか出来ないことがあったように、確かに、この人にしか出来ないことがあったのだと思う。自分の手では引き出せないような一面を見せ付けられれば、ツキリと、微かに痛む胸もあるような気がするが。
それでも、苦しむようなことじゃない。僻みも悋気も言葉にならない何かしらも、ゴミや汚水で汚れきった黒々とした海に捨ててきた。
また芽生えたとしても、溶けて消えてしまうまで何度でも流しに行けばいい。必要なら何回何十回と、足を運ぼう。忍耐力には自信がある。

門出は、祝うものだ。
気恥ずかしげに、申し訳なさそうな目を向けてきていた姉に一度だけ笑ってから、殆ど散ってしまった桜が作る淡い色の絨毯を踏みしめた。

最重要案件は片付いた。後は、姉に語った手前帰るまでの時間を潰さなければいけない。
特にやりたいことも思い付かないし、暇を持て余していそうな中学の友人にでも連絡するか…と、声が届かない距離を保ってから携帯を取り出した。
多分、あいつらも八つ当たり要員としては役立つだろう。五月蠅すぎて更に疲れる羽目にならないとも言えないが。



(まあ、それもありか)



今はきっと、騒がしいぐらいが有り難い。馬鹿騒ぎは苦手だが、出来れば笑える方がいい。
あの人を心配させないためにも…と、ここでも考えてしまう辺り、まだまだ救われないと溜息は絶えないが。

大切な“家族”を支える正しい弟に、いつかはきっと、そうなりたい。
どうか、この願いは叶いますように。今にも散りそうな花を咲かせる桜を見上げて、願を掛けた。

20150410.

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