それは、移動教室の最中。
いくつかの教室前の廊下を通り過ぎながら、何となく見上げていた標識の文字を読んで、そういえば、と思い付いた。
以前話したときに彼女のクラスだと言っていた教室は、ボクの所属するクラスより位置的に階段に近く、移動教室の時には必ずと言っていいほどその前を通ることになる。
勿論今日も例外ではなく、その教室の前を通り過ぎながらこれもまた何となく教室の中を覗いてみようかとしたところで、開きっぱなしのドアから不意に出てきた影とぶつかりそうになって足を止めた。
「っわ、すみませ…あれ? 黒子くんだ」
「白雲さん…」
まさかここまであっさりと彼女を見つけられるとは思っていなかったので、驚いて二の句が紡げない。
彼女の方はぶつかりそうになった相手が顔見知りだったことに少し驚いただけで、ふっと表情を緩ませると僅かに首を傾げた。
「移動教室?」
「あ‥はい。次は化学なので、実験室に」
「そっか…あ! 黒子くん今ちょっと待つ時間ある?」
「?…授業が始まるまでまだ余裕はありますけど」
「じゃあちょっと待ってて?」
急に何かを思い付いたようにくるりと身を翻して室内に戻っていった彼女に、今度はこちらが首を傾げる番だった。
離れていく彼女の背中が、一つの机の前で止まる。
窓際より一つ手前の列の、一番後ろが彼女の席らしい。
同じクラスだったのなら隣同士になるな、とぼんやりとした気持ちで考えていると、その前の席に座っている女子生徒が鞄を漁る彼女に向かって楽しげに何かを語りかけるのが目に写った。
仲のいい友達だろうか。
何かを手にして小走りにこちらに戻ってくる白雲さんを、笑いながら見つめ続けている。
「これ、この本! 読み終わったから返そうと思ってたの」
貸してくれてありがとう、と柔らかな笑顔で差し出された本は、確かに2、3日前に彼女に薦めた本だ。
文庫本とはいえそれなりに分厚い部類に入るその本を、こんなに早く返されると思っていなかったボクは驚いて目を瞠った。
彼女もかなりの本好きだと、聞いてはいたが…。
「早いですね…」
「うん、面白くてつい夜更かししちゃったよ」
「そんなに急がなくても気にしませんよ」
「そうだね…でも、本ってできれば一気に読んでしまった方が世界にのめり込めるから」
図書室で借りたわけじゃないし期限がないと分かっていても、つい続きが気になって読んでしまった、と語る彼女は本当に嬉しそうに頬を緩めるものだから、こちらもつられてしまう。
彼女の言うことは自分にも重なるもので、同じ感覚を共有しているという事実が胸の内側を充足していく。
彼女はやっぱり、どこか違う。
会話しているだけで、傍に寄り添われているような気分になるのは、何故だろうか。
「それに、人に貸したらまた自分も読みたくなるかなぁ、って」
「…確かに、そうですね」
彼女に貸した文庫本は自分でも気に入る部類のものだったので、手元に返ってきたのを見るとついまたページを捲りたくなる。
その辺りまでお見通しかと、そろそろ擽ったいような気分になる頃、教室の前方にある時計に目を移した彼女があっ、と声を漏らした。
「ご、ごめんね長く引き留めちゃって…移動中だったね」
「ああ、そういえば」
「そういえば、って…黒子くん、意外と授業真面目に受けてないタイプ?」
「いえ、いても気づかれないので遅刻してもあまりばれないというか」
「ああ…」
なるほど、と苦笑する彼女に名残惜しさを感じつつ、それでも好んで遅刻したいわけでもないので扉から離れる。
またね、と手を振る彼女にはい、と頷いて返して、足早に目的地を目指した。
「黒子ぉ! てめっ、どこいたんだよ!?」
「最初からいました」
「嘘つけ!!」
どうやら実験班は火神くんと合同だったらしい。
実験道具を手に何をしていいのか判らず右往左往していた彼は、ボクを見つけると眉をつり上げて怒鳴ってきた。
あまり大々的にばらされると困るのだけどな、と思いながら、教科書と文庫本は揃えて広い机の隅に避けて置く。
返ってきた本を読みたい気持ちは押さえて、今は困りきっている火神くんを助けるのが先だった。
実験室へ至る道そうして漸く手が空いた頃に開いたページで見つけた付箋に、思わず一度本を閉じて腕に顔を伏せてしまったのは、仕方のないことだと思う。
(あ?…何やってんのお前)
(…いえ、少し不意を討たれました)
(は?)
20120721.
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