帰宅してリビングに入ったと同時に、キッチンとを繋ぐカウンターに子機を置き直した、弟が振り返った。
「お帰り」
「うん、ただいま。帰るの早かった?」
「体育館整備で部活休み…って、言うの忘れてた。ごめん」
「そっか」
じゃあ、急いで夕飯に取り掛からなくちゃね。
いつも通り、他愛ない言葉を交わしてから自室に戻り、部屋着に着替えてエプロンを身に付ける。
自然と溜息が漏れて、振り払うように首を振った。
見た目には穏やかな弟とのやり取りに、越えてはいけない一線が見栄隠れするのはいつものことだ。ずっと前、このお芝居のような優しい関係を築き上げた当初から、それは存在していた。
幼い頃から当たり前に知っていた、触れるべきではない二人の間に張られた糸。
どうしてか、最近はその境界が以前よりもはっきり視界に入ってくるようで、無視できなくなっている。
これが変わるということで、成長するということなのか。
微かに感じてきた虚しさに目を瞑れなくなって、踏み出す前に足踏みしている今が選択の時だということは、なんとなく解ってしまった。
(…欲張り)
我儘。意地汚い、子供。
手放しても、このまま繋ぎ止めようとしても、そんな私の狡さは何一つ変わらないのだろうとも、分かった。
私は、欲しいものが多すぎる。
「颯は…さ」
両親の影が定着しないリビング、テーブルには煮物の気分かな、と溢した弟のリクエストに応えて和食に寄ったメニューが並んでいる。
こうして二人向き合って食事をとることにも馴染んでしまったなと、改めて思いながら鯖の味噌煮に箸をつける。
小さかった自分が四苦八苦しながら覚えた手順も、今ではわざわざレシピを見るまでもなくなった。甘辛い味付けは祖母が食べさせてくれていた味と、ほぼ同じものに仕上がっている。
けれど、その元の味を知るのも、結局は私だけなのだ。
私の思い出は私の中にしかないもので、誰とも共有できない。誰かに押し付けられるものでもなかった。
不意に掛けられた声に顔を上げた弟は、感情の揺れが窺えない目をして私を見つめ返してくる。
一瞬、続きを紡ぐことに躊躇いを覚えた。けれど、
「颯は…もう、やめたい…?」
問わないわけにはいかなかった。
必要だと信じて口にした台詞に、それまで満ちていたはずの和やかな空気が霧散する。
逸らしたくなる目を真っ直ぐ、正面に固定して訊ねれば、弟は無言で箸を置いた。
「私の…家族でいるの、やめたい…?」
もう一度、明確な意味を持って問い掛ける。
似たような言い争いを、幼馴染みと弟がしていたのはつい数日前のことだ。訊ねるタイミングとしてはおかしくない。
答えを待って手の中の箸を握り締めていた私に、重たげに目蓋を下ろした弟は、肩を動くほど大きな息を吐き出した。
「やめてもいい」
その返答に、構えていたはずなのに、ぎくりと心臓が固まった気がした。
「姉ちゃんがそうしたいなら」
再び持ち上がった目蓋の奥の目は、私には向けられなかった。
そのまま席を立つ姿に、背筋に寒気が走る。
「ちっ…」
違う。そうじゃない。やめたいわけじゃないの。私がやめたい、わけじゃなくて。
「颯…っ」
追い掛けようと、気付いて立ち上がるのも遅かった。
夕食もそこそこにリビングから出ていってしまった弟を追って、階段に辿り着く前に、上階で扉の閉まる音が耳に届いた。
まるで、来るなとでも言うように。きっと部屋まで行ったところで入れてもらえないのだろうと、悟らせる行動だった。
(違う…)
血の気が引くとはこのことだ。
全身から力が抜けて、座り込んでしまいたくなる。
馬鹿なことをした。答えを急ぎすぎた。私は、私の気持ちしか考えていなかった。
颯は、優しい子だ。昔から私を傷付けまいとしてくれる子だった。
だからこんな風に、近寄るなと態度で示すような拒絶を受けたことは、今まで一度もなかったのに。
(どうしよう)
私の所為だ。間違えた。もっと違う言葉を選ぶべきだった。ちゃんと自分勝手な気持ちから、説明すべきだった。
どうしたらいいんだろう。すぐに謝りに行く? でも、聞いてもらえる気がしない。きちんと向き合って解り合えるなんて、楽観視はできなかった。
無意識に、手が伸びたのはポケットだった。
制服から着替えた時にパーカーのポケットに押し込んでいた携帯。それを取り出して、アドレス帳の中の一件を呼び出すまで、殆ど何も考えていなかった。
混乱と後悔がぐるぐると巡って、思考のポイントが押さえられない。何を考えていいのかも判らなかったから、衝動的に縋り付いてしまった。
『もしもし? なつるさん?』
「……っテツヤくん…」
『はい…なつるさん、何かあったんですか?』
繋いでしまった電波の向こうから、微かなざわめきが聞こえる。まだ彼は外で、帰宅途中なのかもしれない。
部活帰りに部員と寄り道をすることもあると聞いたことがある。その邪魔をしているかもしれないと、一瞬過った考えは気遣うように返ってきた声に掻き消されてしまった。
申し訳ないと思ったはずなのに、思った通りに配慮できない。
「テツヤくん…私……っ」
どうしよう。テツヤくん。
私、きっと、酷く颯を傷付けてしまった。
きっと颯には、私が嫌になったように聞こえてしまった。
姉弟をやめたいと私が思っているんだと。
違うのに。私はそんなこと、思っていないのに。
私はただ…
『なつるさん!』
私はただ、私の勝手で颯が振り回されるのを、もうこれ以上、見ていたくなかっただけで。
『しっかりしてください』
あんなに泣いたのに、もう忘れたんですか。
纏まらない弱音を垂れ流していると、少しだけ尖った声に叱咤されて肩が跳ねた。
『なつるさんは、颯くんのお姉さんでしょう』
嗚咽を刻んでいた喉が、ぐ、と音を立てて詰まる。
聞いたことがない温度を帯びている、彼の声は怒っているようだったけれど、それもすぐに緩んで本来の穏やかさを取り戻す。
『何があったかは知りませんけど…大丈夫です。絶対大丈夫なことは分かります。颯くんはなつるさんを嫌ったりしない』
「で…でも」
『いいから、まずは落ち着いて、泣き止んでください。なつるさんが冷静にならないと何を言っても届きません。颯くんなら…時間がかかっても、きっとなつるさんの言葉なら聞いてくれるはずです』
「そ、れは……」
『それとも今からボクが慰めに行った方がいいですか』
「! だ、だめっ!」
『でしょう。ボクがそうしたくなる前に泣き止んでくださいね』
さすがにそこまでの迷惑は掛けられない。そう思うと同時に、今正にとても迷惑を掛けてしまっていることを唐突に実感した。
本当に、正体をなくしかけていたらしい。いつの間にかぺたりと冷たい廊下に座り込んでいる自分にも気が付いて、耳に当てている携帯が重くなったように感じた。
私、なんて恥ずかしい、面倒なことを。
「ごっ…ごめんなさい……」
何を考えているのか。いや、何も考えていなかったのは分かっている。
でも、どうしてこんなことを。両親は仕方ないとして、何故何かと気にかけてくれている幼馴染みの方を頼らずに、まだまだ縁の短いはずのテツヤくんに電話を掛けてしまったんだろう。
恥ずかしいし、申し訳ない。彼がいくら優しい人でも、脈絡も何もなくいきなり泣き付かれれば、さすがに面倒に思うだろうに。
また失敗してしまった…と軽い自己嫌悪に陥っていると、少しだけ間をおいて落ち着いた声が返ってきた。
『…それがボクに連絡してきたことに対する謝罪なら、いりませんよ』
「…え……」
『弱音ならいくらでも溢してくださいって、ボクが言いましたから。それでいいんです』
関係なくない、って言ったでしょう。
電話の向こうでも、私を安心させるために微笑んでくれる彼が見えた気がした。
思い浮かべられるだけ、何度も助けられていることも思い知らされた。
だから私は、ついついテツヤくんに甘えてしまったのだということも。
『何か、変えようと思ったんですね』
「っ…ん…」
『勇気を出したけど、少しだけ余裕がなさそうですし…それで失敗したのかもしれませんね』
今更、漏れそうになる泣き声を堪えても、彼には見透かされてしまう。解っていても、情けないことは情けなくて、震える唇を掌で覆った。
胸の内側が、びりびりと痙攣する。
『落ち着いたら、伝えたいことを考え直しましょう。なつるさんなら二度も失敗しませんよ。迷うところがあればボクも一緒に考えます』
ね、だから泣き止んでくださいね。
さすがに今の時間じゃ、直接慰めにお邪魔する方が迷惑でしょうから。
冗談のように笑み混じりの声でそう言ってくれるテツヤくんは、それでも、私が無理だと口にすれば今からでも駆け付けてくれるような気がした。
そんな我儘を吐き出そうなんて、思ってもできやしないけれど。
訣別を見据えるだから、留まりたがる気持ちが少しずつ、錆び落ちていってしまうのだ。
20141026.
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